書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

渇望する心、欠けてる無意識の感情に目を向ける

私はどこかずっと、自分に与え切れてなかったものに対して「何か欠けている」という自覚なき渇望に気づかぬまま、新しい情報や何かを外に追い求め続け、毎日を忙しなく過ごしていたように思う。

そして日常の何気ない一コマでの出来事をきっかけに、その欠けてた感情が別の形になって姿を現し、ギョッとすることがある。
あまりにもそのショックが大きいと、その出来事に居合わせた人を非難したり否定することで、その場の感情をどうにか見ないふりをしてやり過ごすように思う。

しかしそんな「感情を揺さぶる出来事」には、私に与え切れていなかった「何か」を発見する手がかりがあるのではなかろうか。
そんな風に思うようになった。

何かが欠けてる。
何かが足りない。
でも、それが何だか分からない…。

そんな堂々巡りの毎日。
そろそろそんな毎日から抜け出したい。
そう思っていた。

例えばこんな風に。

私は一方的に自分の話ばかりをし、無理やり相手を聞き役に回すような人がすごく嫌いだ。
そんな人と会話をしていると(いや、私の中ではそれはもはや会話ではなく、私を感情のゴミ箱扱いをする人と呼びたい)私は段々と機嫌が悪くなってしまう。
それをよく観察してみる…。
すると、その相手の「一方的に自分のことばかりを話す」という態度によって、私に十分に与えられていなかった「何か」をさらに奪われ、刺激されるように思うのだった。

ーそれは一体なんだろう…?
それは、我慢に我慢を重ね続けていたこんな想いたちだった。


「私の考えも尊重してほしい」
「私の話もきちんと聞いてほしい」
「私のことも関心を持ってほしい」
「私のことも平等に大切に扱ってほしい」
「私の意見も無視せずに尊重してほしい」
「私の気持ちもしっかりと見てほしい」


この想いを並べてじっくりと眺めてみると、どれも小さな頃の私が欲しくても与えられることすら許されなかったことばかりだった。

欲しくても与えられなかったものが渇望感だと呼ぶならば、その渇望感に突き動かされ、怒りを使い、私の心をこれでもかと揺るがしていたように見えてきた。

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