書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

「理解してもらいたい人」が存在するのではなく…

どうも私たちは目の前にいる人へ、つい期待を寄せてしまうようだ。

目の前にいる親。
目の前にいる先生。
目の前にいる友人。
目の前にいる同僚。
目の前にいる上司。
目の前にいる旦那…。

そしてひとつ理解してくれた、肯定してくれたと思えば、その人を「良い人」と決め、いずれそれは当たり前と変し、そして相手への期待をより大きく膨らませ続ける。
そうやってだんだんと相手への要求が高く、そしてより厳しくなり、そしてたったひとつ理解されなければ、大きな期待はあっけなく腰を折られ、裏切られたとばかりに時に相手を非難したり恨んだりもする。

しかしふと思った。

私は本当にこの「目の前の人に」理解してもらいたがっているのだろうか…?

いや、ちょっと違うのかもしれない。
ふと別のことが思い浮かんだ。

実のところ、外の人から肯定の言葉をもらうということを通して、「自分を肯定する」という目的を達成したがっていただけなのではないだろうか…?

つまり「外側からでしか自分の肯定ができない」。
そう私が思い込んでいただけではないのだろうか?

そう思うと、理解してもらいたい人が存在しているのではなく、「己の中にある自信のなさ」がフォーカスされ、スーッとそれが浮かび上がってきた。

私はずっとそれを見ないフリをしたまま、外側の人を掴まえ続け、かろうじて埋め合わせし続けていたのかもしれない…。

では私が本当に得たいものは…?

「内なる自信」

それは自分の五感や感じたことを信じること。
感じるには行動し経験すること。

私の中にそんな経験と感動がしっかりと育まれるにつれて、外側の「理解してもらいたい人たち」はスーッと消えてなくなるような気がしてきた。

★いつもご訪問ありがとうございます。応援して下さる方は下のバナーをクリックお願いします。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ こころの風景へ