書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

言葉の可能性、言葉の限界、そしてその先にあるもの

私にとって言葉や書くことは、思っていることを表す上でとても大切なツールだと思っていた。
心にガチッとハマる言葉が思い浮かび、それを選択し、伝え、相手に伝わった時は、この上ない爽快感と喜びをもたらす。
そんな言葉が私は大好きだ。

しかし、ある時は「言葉」という形の限界を感じたり、言葉によって私が私を傷つけたり、苦しめることもある。

どう言葉にしたらよいか分からない感情。
言葉を通して感じる微細なエネルギーのかけらに反応している自分。
言葉と言葉の隙間に横たわっている微妙な感覚と無限の時間…。

こんな形にならぬ感覚に覆われている時、その感情がぐるぐると渦巻いているその瞬間、私の思考はフリーズし、言葉は全く歯が立たない。
わかり合いたい気持ちというのは消失し、ただただ、自分の感覚を持て余してしまうのだ。
そんな時、私はどうしようもない無力感に覆われ、ただその場に呆然と立ち尽くしてしまう。
完全なる降参状態だ。

そんな時、無理に間に合わせの言葉を使ったとしても、その言葉は何とも言えない陳腐なエネルギーに変わるだけで、それはもはや私の愛する言葉ではないのだ。
そんな言葉で自分を取り繕ったり、言いくるめたり、自分を騙すこともできないのはもう随分と前から知っていたことなのかもしれない。

ほとんどの人は形あるものしか見ようとしない(私もまたそんな人間だったが…)。
しかしそれが習慣となると、いつしか形あるものだけが全てだと信じ込んでしまい、それに巻き込まれそうになる。

しかし、よく考えれば言葉という形は、言葉が生まれる前の形なきもの…自然のうごめきの一部を人間の五感でじっくり感じ、育み、そして人間のフィルターによって生み出された産物に過ぎなかった。
私はそんな「ほんのエネルギーの一部」をちょっと使いこなせて得意になり、世界をまるで全部掌握したかのような私の鼻を、いとも簡単にへしおられたような…そんな気持ちになった。

本当のことなんて誰にも分からない。

けれどなんとなく私が感じるのは、言葉や形ある世界は全体のほんの一部にしか過ぎず、本当は「形のない世界」「言葉が生まれる前の静かな時間と空間」の方に、私が大切にしているものが隠れているのではないのかという微かな感覚だった。

今まではみんなが認めるからと形ある花だけを愛で、それをフォーカスして写真を撮っていたのが、実はその花を育んでいた背景にあった空気、土、水、光、温もり…。

そんなものたちにシャッターを切り始めているような感じがする。

そんな「形なきものへの視点の変化」「根本を思い切り覆すような大転換」が、じわじわととても少しずつ私の身に起こっているように思う。

★いつもご訪問ありがとうございます。応援して下さる方は下のバナーをクリックお願いします。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ こころの風景へ