書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

自己肯定感に関する再定義

「自己肯定感」
心理学に興味を持ったことのある人であれば誰でもこの言葉は聞いたことはあるだろう。

左脳=分析・知識という観点からはすぐに理解できる。
しかし右脳=実感・感覚という角度からはどうなのだろうか?

また私がなぜ、この自己肯定感という言葉にこだわっているのかと言えば、今までの私に自己肯定感という言葉は左脳でしか理解しておらず、五感レベルでの実感とやらは全くもってないからだ。
悲しいのだが、それが本当のことなのだ。
五感レベルで言うならば、まるで存在しない透明人間かのように思うような…そんな感覚がずっとあった。

では、なぜそうなのだろう?
そう自問してしばらく待ってみると、やはりあの頃…幼稚園の頃の暗黒の過去の時間に、ズルズルと引き戻されるようだった…。

振り返ると、私の自尊心と自己肯定感をめちゃくちゃに踏みにじられ、粉々にされたのは、この時期の体験とそれに伴う感情に全て凝縮されているようだった。

次々とあの頃の色んな場面が私の頭の中をよぎる。
今日はそれを根こそぎ書いてしまいたい気分だ。


お風呂に入っている時。
母親はとてもイライラと面倒くさそうに、私ののとをまるでモノを扱うかのように乱雑に平気で熱湯をかけ、シャワーをかけてきたあの恐怖の感覚。


またある時…。
母親が怒り狂った形相で、なんどもなんども布団叩きで意識がなくなるほど私を叩き続ける。
私は必死で丸くなって、座り込んだ。
そして、その時にそれを止めてくれる父親も兄弟も誰もいなかった。


次にこの場面…。
幼稚園の頃に家を追い出され、ひとりとぼとぼと暗闇の中、あてもなく、唯一思い浮かんだ行けるはずのない親戚の家に歩いていこうと決めた小さな私。


次はふとこんな場面も…。
味噌汁をうっかりこぼした私は罵られ、思い切り叩かれ、そして一晩中泣き続けたこと。


そして、なんどもなんども繰り返し思い出しては苦しく感じる場面がこれだ。
私の計算が遅いと、そろばんが割れるほどに思い切り私の頭を叩かれたこと。
この上ない屈辱だった。


そしてまたある場面。
日本名に変えさせられて幼稚園に通った頃、母親のことを韓国語で「オンマ」と言えず、黙ってスカートの裾を引っ張って呼んだ自信のない私。


そしてきわめつけはこれだ
小学校の頃、夫婦喧嘩の仲裁として、夜中に追い出され、朝まで父親の事務所の前で待たされたこと。


この頃、私にとっての親は、もはや「養育者」という概念とは程遠く、単に自分のうっぷんをぶちまけるために子供を利用し、私の生命の危険を侵す「恐怖と否定を植え付ける悪魔」でしかなかった。


『屈辱感』

私は母親からされた数々のこの仕打ちに対し、この上ない「個としてのこの屈辱感」を舐め続けていたことを改めて感じる。
自尊心もまだ育たぬ幼い頃に、この「悪魔」にやすやすと踏みにじられ続け、そしてまだ未成熟だった小さな私は、それを立ち向かうこともできず、受け入れるしかなかった自分の無力さをも恨み、そして情けなく思っていたのだった。
そして誰も助けてくれないこの底なし沼になんども絶望し続けた。

なんどもなんども…そして、30年以上もの長い間の冷たい体と心の感覚だった。
そんな風に、私の家庭環境はまるで厳しい冬の寒さにあり、それを味わい続けるうちに、私は感じることをやめたいと強く願うようになった。
そして、そのもともと備わっていた感じるという能力を消すことを選んだのだ。

これが私の暗黒の過去の断片だった。

こんな場面をひとつひとつこうして広げてよく見ていると、そもそもこんな土壌で長年育った人間が、きれいさっぱり過去を水に流し「過去にそんなこともあったけれど、私は自己肯定感に溢れている」だなんて簡単に口にすることなどできない。
もし仮に自分の頭を偽ってそう自分に言い聞かせたからと言って、私の五感はそうそう騙せるはずもなかった。
この長い間に与え続けられた冷たさと恐怖しか知らない感覚という私の一部は「それは違う!」と強くそれを拒絶しているのだから。

そんなオブラートに包み過去をなかったことにする「ニセモノの自己肯定感」で、自分の体裁を取り繕い、人の目を気にする態度を続けていたのであったのなら、それは、かえって私の自尊心を深く傷つけ、さらに自分を苦しめ続けることだったろうなぁと今なら分かる。
(むしろこんな状態で自己肯定できる人がいるとしたら教えてもらいたいものだ)

そんな過去の経緯から、ずっと私は、親をはじめ、他人の機嫌がよい時にしか、自分の存在を感じる隙間がなかった。
常に生命の危険にさらされるかもという不安がほとんどだったし、いや、もっと正確に言うならば、自分の安全を一時的に感じることができなかったといった方がよいのかもしれない。
またさらに言い換えるならば、「親の機嫌がよくなければ私は身を潜めて存在しないように振る舞わなければならない」と、体の感覚ではそう解釈し、反応していたのかもしれない。
そうなれば、ほとんどの時間は、自分が透明人間のような生きた心地がまるでしなかった。
これが自己肯定感を阻害し続けていた過去のエピソードたちだ。

では、今現在はどうなのだろう。
自己肯定感を感じるためにどんなことをすればよいのだろう?

もちろん、こんな「危険な存在」のいる環境から離れるということは言うまでもない。

他にも日常生活の場面ではどんな時なのかなぁと考えてみた。

湯船でゆったりとただよっているとき。
体全体が水に浸かった時に浮かび上がってくる、わたしの体を感じる感覚。

裸足でのんびりと散歩をしているとき。
ひんやりとした足の裏を感じながら、一歩一歩歩く感覚。

マッサージをしてもらうとき
私の体のどこが固いのかなどの感覚に集中しながら、体を感じる。

感じていることを自由に書いているとき。
タイピングによって、頭が空っぽになる感覚と、感じていることが言葉として紡ぎ出される感覚。
そうやって書くことを通して、私が感じているものがそこに存在していることを認めてあげているような…そんな時間だ。

花を観察し、その姿を写真に収める時。
シャッターを切りたい位置を定め、全体のフレームのバランスを確認する感覚。

これらの時間は、わたしにとっては、頭の中が空っぽになり、感覚を通してただ存在していることだけが分かる。

抱きしめてもらう時
相手の体温を通して、自分の体のぬくもりと温かさを感じる。

日向ぼっこをしている時
血流がどんどんと加速し、生きている心地が湧いてくる。

お腹が空いている時に食べたいものを食べる。
体が温まって心もホッとする。

どうもこう書き連ねると「五感レベルでの温かさ」が重要なキーワードのように思える。

これこそが、今わたしが定義する自己肯定感であり、わたしという存在を頭も心も認めている感覚だ。

こんなひとつひとつの行動を自分に与えながら、私にゆっくりと、そしてしっかりとした深い安心をもたらしながら、私が私の自己肯定感を私が責任をもって育てたい。

そうこう書いてるうちに、過去の涙をしっかり確かめ、そして自分で拭い、幼いながらもしっかりと自分の足で立ち上がろうとしている小さな私の頼もしい姿がイメージできた。

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