書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

手術という死の体験

おかげさまで先週、無事に手術を終えることができた。

自分で手術を決断したものの、手術当日まではなんとも言いようのない不安が波のようにやってきては去っていく日々に揺れていた。

「簡単な手術だから」
こうお医者さんや旦那が勇気付けるつもりで言ってくれていたのだが、その言葉は私にとってはなんの慰めにもならなかった。
頭ではそんなこと分かってはいる。
私の左脳は随分と前から予想していたことを敢えて繰り返されるようで、まるで私は理解していない人のように扱われているようで、彼らの発言に私はイラついていた。
今思えば、彼は自分の不安を落ち着かせるためにそう言っていたのだろう。

その一方で、私の感情を司る右脳側の理解は全くもってほったらかされてしまっているような不快感があった。
感情を操る右脳は、すっかり恐怖と不安に覆われてしまっているようだった。
手術前日の夜は不安が限界に達し、たまらず涙がこぼれ落ちた。

「あぁ、こんなに私は必死で不安をこらえていたんだよね」

オロオロする旦那は脇に置き、とりあえず泣きたいだけ泣かせてあげることにして、どうにかこうにか自分を慰めていた。

そして、手術当日。
今回は公立の病院と違って、私立の病院で事前に予約をしておいたので比較的スムーズにことが運んだ。

とは言え、手術のために着替え、麻酔の受けるための事前の問診、手術台に乗った時のあの気持ちはなんといえばよいのだろう…。

『今までの私が一度死ぬのだ』

そんな「私自身の存在の死」への恐怖と不安に覆われているようだった。

麻酔がかかり始めた瞬間、もうこの恐怖と不安に委ねるしかないのだという諦めとともに、静かに目が閉ざされていく感覚を味わった。

体も心も、この死という暗闇の中にずっしりとゆっくりと引きずり降ろされ、沈んでいく。
あぁ、死ぬときはこんな感じなのかな。
そんな「死の儀式」を体験したかのような感覚だった。


そしてその「死の体験」から目が覚め、たったひとつ分かったことがある。
私はずっと、この「わたし」という存在を否定されることがわたしにとっての死であり、その死への恐れを持っていたということだった。

角度を変えて表現するのならば、私はまぎれもなくずっと生きていた。
でもそのわたしという生をずっと、小さな私が否定し続け、苦しかっただけに過ぎなかったのだ。

そして今のわたしはどうだろうと問いかけてみた。

すると「生きていたい」という望みが答えとして出てきた。
わたしにとっての「生きていたい」とは、私はこの与えられた命=時間をしっかりと使い切るように、したくてたまらないことだけを選んで生きたいのだという望みに沿って行動していたいということだった。

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