書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

流産という経験の意味すること

私は今の旦那と過去に、二回の流産を経験している。
今、この一行を書いただけで、涙が勝手に溢れてくる。

この出来事はまるで、この写真の空のように痛みで歪んだように見えたまま時間がずっと止まり続けていたように思える。

当然ながら、こういった話題は、知り合いに気軽に言える内容でもなく、こうしてひっそりとその想いを綴っては消化しようと試みているのだが、そのことを思い出せば、反射的に辛さや痛みを感じてしまい、ついそれを避けてしまう。
そんな調子で、ずっとそれについて振り返る時間をなんとなく取らずにいたように思うのだが、それも時間を置いて、悲しみなどの感情に溺れないようにそっと距離を取ろうとしていたのかもしれない。

過去にも何度かこの話題について書いてはいるのだが、また、こうしてこのことを書き始めただけで、涙が溢れてしまって、中断しながら数日に分けて書いている。

でも、今日は書き終えたいと思った。
なぜなら、過去を本当の意味で過去にする時がやってきたように思うからだ。

一回目の流産は2014年。
中国での出来事だった。
旦那と付き合って半年ぐらいのことだった。

過去に付き合った人は何人かいたのだが、「妊娠」という経験は後にも先にも今の旦那とだけだ。

生理が遅れることはほとんどなかったので、直感ですぐ妊娠したことは分かった。
当初は、私も妊娠するのだという驚きと、命が宿ったという喜びが入り交じったようなよく分からないような気分だった。

しかし、そんな喜びもつかの間、一気に不安も襲ってきた。
中国の病院への不安。
知り合いがいないとまともに診察も受けさせてくれない環境。
中国の婦人科は男性は同伴禁止という不安。

そんな中、私はほどなくして流産していることを知らされた。
心臓が初めから動いていない状態=「繋留流産」という体験だった。

そのショックはあまりにも大きかった。
ショックが大きかったというのは、一体、私の身に何が起こったのか訳が分からないまま時が止まったような、そんな気分だった。

そんなショックが大きかった一方で、彼は懸命に私のために色んなことを考え、行動し、尽くしてくれた。
その時の彼の行動力と責任感の強さ、献身的な行動を目の当たりにし、私は彼と結婚しようと決めたことは間違いない。

また、今、思い返せばあの時期…まだ結婚もしていない時に中国で妊娠、出産してたとしたら、それはそれでとても大変だったように思う。

旦那と振り返ってたまに話すのは、きっとあの時の出来事が私たちの縁を繋いでくれていたのだろうねと夫婦にとって優しい解釈に変わっていった。

その後、彼との結婚は順調に進み、ほどなくして2015年に入籍、そして、2016年に中国からオーストラリアに移った。
移って間も無く二度目の妊娠が分かった。

当初、私もオーストラリアの生活や新しい家族との付き合い方にも慣れていなかったし、普段はとても冷静沈着な旦那も、明らかに取り乱している様子だった。
実際に、私に相談すべきことを言わずに自分の妹に相談したりなど、不可解な行動をしては喧嘩にもなった。
私もまた、この土地に来てから数ヶ月の不慣れな土地での妊娠は不安が山積みだった。

ただ、一回目と違ったことは、心臓が動いていることも確認できたことだった。
これでひとまずは安心とほっとしていたのもつかの間、旦那のストレスは想像以上だったようで、旦那がある日を境にみるみると痩せ始めた。
病院にかかると、甲状腺の異常があることが分かった。
今思えばストレス状態が続き、ホルモン分泌が増えてしまったようだ。
そしてそんな様子を見て私もまたうろたえた。
その数日後のある日、私は出血し、流産したことが分かった。
8週目を数えた頃の流産だった。

二回目の流産。

この一年間に幾度となく「この出来事には一体、どんな意味があったのだろう」という問いかけもしていた。
しかし今、この問いかけを改めて眺めてみると、二十代の頃によく「私は何のために生きているのだろう」と投げかけていた頃の気持ちによく似ているようにも思う。

こんな問いかけをしたくなる気持ち。

それは、心が深く傷ついたり、自責感で転げ回るように痛がっているということを今の私は気づいてあげられているように思う。
そして、その傷ついているということを、ただ、そうだったんだねと声をかけてあげ、隣でじっとその感情に寄り添い、じっくりと留まりたいだけ留まらせてあげたい自分がいる。

また同時に、その問いかけから出て来た答え。
それは、私はその子からこう厳しく問いただされているようにも感じる質問返しにも思う。

『本当に母親になる覚悟ができているの?』
『あなたは子供を持つと言うことで一体、どんな感情を得ようとしているの?その感情の動機は愛からくるの?それとも何か自分に足りないものを埋めるためのものなの?』

的を得た質問にぐうの音も出ない…。

また、こんな冷静な言葉も頭からよぎる。

『チャンスはいつでも誰にでも平等に与えられている。ただ、その準備がきちんとできた器にだけ、そのチャンスが盛られるだけである』

今も流産のことを思い出すと、今もとても大きな悲しみに呑み込まれそうにもなる。
しかし今は、その悲しみの涙に溺れることなく、もっと奥の方を泳ぎきり、深いところで見つめている自分もいるように思える。

何を静かに見つめているのかと言えば、これからも私の前には色んなことがやってくるのだろうし、そして去っていくこと。
その出来事や経験の中で、私はやはり感情にもがきながらも、自分の内側では一体、何が起こっていて、その感情に目を向けて探検し続けているのだろうし、また、そうやって生きていくしかないのだということだった。

そして、ひとつ去った後にはきっと、また何かがやってくるということだった。

色んな出来事から自分の内側で起こっている感情を探り続ける。
そう繰り返していくうちに、初めには歪んで見えた空が実は、こんなにもクリアだったことに気づける日が来るような、そんな気がする。

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