書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

「ありのままを受け入れる」の再考と気づき

「ありのままを受け入れる」

これについて、私はひとつ、大きな勘違いをしていたようだ。

それに気づかせてくれたのは、いつもお世話になっているカウンセラーの方が主催するお話会での言葉だった。

『「私の内側で起こっていること」を全て受け入れる』
「他の人が言うことを信じる必要はない」

数日経過してハッと思ったのは、私の中でずっと「ありのまま」を受け入れる対象というのは、私とそれ以外の人すべてのことだと思い込んでいたようだった。

極端なたとえで言うと、昔に母が私を虐待したことがある。
昔に母がした数々の理不尽なことたち。
それを私は甘んじて全て受け入れなくてはならないのだと思い込んでいたようだった。

でも、本当はそんな小さな私が理解していたこととはもっとかけ離れたところに真実は存在しているようだった。

本当は「私は母から虐待された」という出来事を通して、あの時何も言い返せず黙っていた悔しさ、耐えきれないほどの強い痛み、親を心から憎んだこと、親を殺したいと思うほどに恨んでいたこと、親とはもう縁を切りたいと思っていたこと…。

そんな「私の」内側で渦巻いていた感情から「私は子供なのだからそんなことを思ってはいけない」などと目をそらししたり、抑えることなく直視し、私の世界にしっかりと迎え入れることだと分かった。

また、逆を返して言うならば、もし外側で誰かが私について直接、何かを語ったり、仮に私に批判していることがあるとしたら…。
それはあくまでのその人の内側で感じているものであり、私のものではないということでもあった。

たとえば、三年以上前に起こったある会話の一コマを未だに覚えている人がいて、数年ぶりに連絡がきたと思えば、開口一番、そのことについて平謝りされたことがある。
実のところ私はそんな場面の一コマはすっかり忘れていたし、正直なところ、私にとってはどうでもよい出来事だった。
その時は、その人が言うことを黙って聞き、別に気にしてないよと伝えたが、心の中では妙な気分が残った。

その出来事をじっと眺めてみた。
すると、その人は本当は私に謝りたかったのではないのだと思うのだ。
「私に謝る」ことを通して、自分の中で起こっている何かしらの感情を消化させたがっていたように思う。

その体験を通して私は、相手もまた「私」という姿や行動を通して、その人の内側で何か消化し切れていない気持ちや心残りなどの感情が湧き起こり、耐え切れず批判したり、謝ったりという行動をしているように思った。

すると、混乱で固まっていた心がスーッと溶けていくような気持ちになった。

あぁ、そうか。
私の内側で起こっていることに集中すればいいんだった。
いや、私は、私の内側で起こっていることしか分からないし、受け入れるしかないんだ。

そう考えると、またひとつ「私」と「あなた」の境界線がクリアになり、またひとつ肩の荷が下りたような、とても軽やかな気持ちになった。

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