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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

子宮の痛み、心の痛み

もしかすると昨日のブログの文章と続いているのかもしれない。

『何かの役に立たなければ、私は存在してはならない』

そうずっと固く信じていた。

だから、時折、誰かに頼られたりすることがとても嬉しかったのかもしれない。
それがたとえ利用されていると知っていたとしても、役に立っていることの快感の方がさらに勝り、それを忘れられずにそれを選んできたのかもしれない。
私はそうやって息をつないできたのかもしれないと思う。

こんなに価値がないと思ってた自分にも何かの役に立てる。
そんなことがとても嬉しくて、そのうちに人の言うなりになることが目的に変わってしまい、知らず知らずに犠牲にする生き方に変わってしまったのではないのかと思う。

今は、その「何かの役に立つ」ということの代表でもある仕事をやめて一年以上が経った。
さらに縁もゆかりもない環境に移住し、言語もまともにしゃべれないというこの状況は「私にはなんの価値がない」という思いがとてつもなく刺激され、心が痛んだ。

それは、私の中にずっとあった「みじめさ」。
それは、私の中にずっとあった「情けなさ」。
それは、私の中にずっとあった「孤独さ」。
それは、私の中にずっとあった「無力さ」。
それは、私の中にずっとあった「ふがいなさ」。

そんな思いに覆われているのに、その痛みを感じないようにするために必死で我慢し続けてた。

その痛みの元を覗いて見た。

それは、「私は誰からも必要とされないのではないか」という恐怖と不安が私を支配していたことに気づいた。
そして、必要とされない私はダメな人間とどこかで批判して打ち消し続けていた自分がいた。
そんな自分をずっとなかったことにしていたかった。

親、パートナー、友人、会社、社会、世界…。

だからこんな何かをずっと握りしめずにはいられなかった。
だから何かをせずにはいられなかった。

私はもしかしたら、そんな心の痛みを埋めようと仕事をやめた代わりになるものとして、子供を求めていたのかもしれないとも思う。

私はずっと、この恐怖の動機でずっと突き動かされていたのではないのだろうか…。

そうだった。
私はずっと怖かったのを我慢してた。

小さな私は、この「私にはなんの価値もない」ということと、親から見捨てられるかもしれないということを結びつけて理解していた。

「見捨てられれば、私は外に追い出されて、路頭に迷い死んでしまう」

そう思っていたのかもしれない。
だからそうならないように、誰かの役に立ったり、褒められるようになることを目標にし続けていた。
そうやって小さい私なりの方法で必死に頑張ってきたんだと思う。

それは「大切な人から捨てられるかもしれない」という痛みのしこりだった。
なんだかそんな心の痛みと、私の子宮=子供の時に居場所がなくてシクシクと痛んでたこととがリンクするようでもあった。

私は「小さい私」が思い込んでいた心のしこりがずっと痛かったことを、本当はきちんと感じてやりたかったんだと思う。