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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

距离产生美〜距離は自尊心を養う空間〜

そもそも価値観はそれぞれみんな違う。

そんなことはもう随分前から分かっていたはずなのに、目の前で明らかに価値観の摩擦が生じているにも関わらず、それを直視せず回避し続け、私さえ我慢すればと、自身に我慢を強い、犠牲にし、その場しのぎでの関係を続けようとしていた。
それが、過ぎ去り頃の私…。
それがずっと私自身をごまかし、物事の本質をずっと曇らせていた由縁だった。

でもそんなごまかしの関係に一体なんの意義があると言うのだろう。

自分に強いていた犠牲心の元をじっと見つめ辿っていくと、それは「小さい私」との再会の扉が開かれていた。

その頃の私は、親や自分以外の誰かに強く「認めてもらいたい」「見てもらいたい」という要求を心の片隅に持ちながらそれを我慢し認められなかった。
あの頃はそれを認めてしまうと、自分がバラバラになって死んでしまうと必死だったからだ。
そんな葬り去りたくても捨てきれずにいたエネルギーがそこにずっと残っていた。
そして、その握りしめてたエネルギーすら忘れてしまった私は、結果、無意識の認められたいこのエネルギーに完全に操られていた。
それは、その場その場での「いい人」を演じたがる衝動を抑えられなくなる人間になっていった。
なぜなら、その時の私にとって、その場、その場の承認によって、私はかろうじて生き延びられていたと信じていたからだった。
そうやって自分だけをいつまでも犠牲にして、置き去りにして、そして結局はその負のサイクル世界の中から抜け出せず生きることを選択し続けていた。
既に目の前の「家族」というのは名ばかりの、実際のところの関係という器はもろくも崩れようとしているのに、それを直視できず、壊れていないフリをするのに必死だった。

また、心の奥底に「認められたい病」を秘めた人の前には、巧みに利用し操る人が寄ってくるものだ。
そうやってどんどんと周りに利用する相手が群がっていることにすら気がつけない。
そして、自ら投げ打った犠牲心が報われることはほぼ皆無だ。
その吐き出せぬフラストレーションに突き動かされ、さらに他人からの承認を得ようと躍起になる…。
それが共依存をのさばらせる根っこでもあった。

なぜなら、その人の心には「相手から否定されたくない恐怖心」が完全に占領しているからだ。
その恐怖をかき消したくて必死な姿があった。

そんな時はどうすればよいか…。

壊れかけた器がいつ壊れるかもしれないと恐れるぐらいならば、距離を置く。
もし、それもできないぐらい癒着しているのであれば、この関係を強引に叩き壊してでも物理的な距離を作り、切り離す勇気もまた必要だ。
その物理的な距離こそが、お互いの頭を冷やし、それぞれが内省するための時間を与えることでもあり、それが、あらゆる執着を手放すことに繋がる。
互いに静かな時間と空間を与えることが、冷静に自らを省み、見つめ直し、根っこを張り直せる唯一のチャンスなのだと思った。
それが、お互いを救う唯一の道なのだ。

たとえその関係が「身内」「恋人」「長年連れ添ったパートナー」「長年の親友」「今日知り合った他人」であろうが…それはどれも同じことなのだ。

それでももし…。
自らを正直に省みること時間を放棄し続け、選び続けてくのなら、それは自らが自分を見捨て、自らの生命を放棄したということでもある。
そんな生命の宿らぬ場所には、人が集まることはないだろう。
それこそが、本当の「孤独」という奈落の底に落ちるということだ。
孤独とは、友達や家族の数の多さなどとは全くもって関係ないところにあった。
それは、自らに対する期待や自尊心を放棄し、己すら信じられなくなった心の状態を指すのだと。

『距离产生美』
自らを省みる時間と空間のための距離は、自尊心を養う大切な空間。
それは自らの生命を大切に扱う尊い時間と空間。

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