書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

無能な人間、無価値な人間と罵る心

「どうせあんたなんてなにもできないでしょ!あんたは何をしてくれたの!」

そんな言葉を浴びせられた時、私は不思議ととても冷静だった。
悲しいような怒りの感じも確かにあったが、本当は、ただ、怒鳴り散らす目の前の人を無感情の目でじっと見ていた。

「あの人」の目からは、私は今、何もできない無能な人間なのかもしれない。

車の運転もできない。
人の子供を救うこともできない。
英語をしゃべれない人間が、オーストラリアという英語圏で暮らしている人間。
夕飯も旦那に任せている人間だ。
一人でどこかにいくこともできない。
仕事もしてない。
なにもしてない人間。

そう。
「あの人」の目からは私は何もできないが集まった無能な人間と密かに私のことをそう見ていたのだろう。
「あの人」の目からは私は無価値な人間に映っていたのだろう。
「あの人」の目からは私は不足ばかりのできそこないの人間に見ていたのだろう。
「あの人」の目からは私は利用価値のない、使えない人間にずっと見ていたのだろう。
ただ、そのもともと抱えてた気持ちを怒りと一緒にぶつけたのだろう。

でもそれは一体、誰のことなの?
それは、ただ、あの人の頭の中にだけある実在しない幻想…。

「あの人」という自分以外の言葉ばかりを信じていた昔の私であれば、そんな幻想の言葉を真に受け、そんな自分を責め、落ち込んでいたことだろう。
そして、そう言われぬようにという恐怖から、したくもないことのために努力して生きていたのかもしれない。

でも、そんな無能や無価値という判断は「私の感覚」ではないということが深いところでとてもよくわかる。
そしてそんな誰かが判断した「無能な自分」「無価値な自分」に振り回されることなく、また、そんな自分を強く否定することもなく、ただ、静かに、ゆったりと優しい眼差しで見てくれるもう一人の自分が包んでくれていた。

そこに見える風景。

それは、無能や無価値な人間という存在は全く消えてしまい、ただ、湧き出るエネルギーに従い、ただそうなっているという風景だった。

掃除も、炊事も、洗濯も、片付けも、本を読んだり、書くことも、中国語を話すことも、突き動かされるまま、ただそのエネルギーがそうさせているだけだった。
運転も、料理も、英語も、仕事も突き動かされるものがなくただ、そこにないだけだった。
びっくりするほどただ、それだけだということが分かる。

そのひとつの状況を見て「あの人」の頭の中で判断したひとつの指標が「無能な自分」「無価値な自分」ということなだけだった。
そして、強くそれを責めなじる「あの人」こそが、自分のことを無能な人間、無価値な人間と心の奥では強く責め続けていることがよく見えるのだ。

この一見、気分の悪い出来事を通して、私の中にずっとあったはずの「無能な私」「無価値な私」というものが癒されていて、とても静かに手離されていることに気づいた。

…正直、私には悟りなんてひとつも分からない。
ただ、分かるのは、これからもびっくりするほど普通すぎる日常がそこに横たわっていることだった。
また、そこには考えもしないびっくりすることが起こるかもしれないということや、もしかすると、殺してほしいと思うぐらいの苦しみも時にやっくるのかもしれないということだった。
そこにはびっくりするほど、醜さがそこで待ってるかもしれない。
びっくりするほど、激しい怒りに巻き込まれる出来事が起きるかもしれない。
そして、びっくりするほど冷血な自分にも出会うことだろう。
そしてまた、びっくりするほどの苦しみにさいなまれるのかもしれない。
そんな自分にがっかりすることもあるのだろう。

そんなどんな状況に置かれ、感情が溺れることがあろうとも、ただそれをひたすら見続け、書き続け、心をひたすら表現し続けることが、私の癒しの道であることだけは分かるのだ。
なぜなら私は「書く癒し」を呆れるほど、そしてもうすっかり離れられないほど、でも、とても静かに熱中し、そしてこの奥底から突き上げられるようなエネルギーを、深く深く愛していた。

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