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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

光を当て続けること

最近、葉っぱが落ちて急に元気がなくなってきたフクシャ。

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よく観察していくと、おそらくここ数日気温が上がらず、日照不足と判断した。

できるだけ陽当たりのよいところを選び、できるだけ長い時間、日光浴をさせられる環境に置くと、息を吹き返している様子だった。

その時思った。

生き物は待った無しで、常に光や水を必要としている。

さもなくば、すぐにその生命は枯れてしまう。

知らず知らずのうちに、その様子を自分に当てはめていた。

私も小さな頃から既に「子供」や「学生」などの役割という名の仮面を与えられ、その場では、その仮面の評価に見合うように生きることを強いられる時代を生きた。

すると、仮面の下の闇の中でひっそりと生きることを覚え、光の存在をすっかり忘れてしまい、心はカラカラの空っぽで、そこからずっと成長が止まったままだった。

それでも、その仮面を被り続けることに必死だった私は、その裏にある本来の私の顔の存在を無視し続け、その存在をすっかり忘れてしまっていた。

すると、私は一体何を求めているのか、私は一体、何がしたいのかなんてことは、当然ながらその空間に入り込む余地なんてなかった。

そんな仮面の生活は成人してからも延々と続けて生きていた。

私はその環境に適した仮面を増やすことだけが上手になっただけで、それを忙しく次々と被り続け、それをただ淡々とこなすことだけを考えて生きてた。

そして、相変わらず仮面の奥にある私は光を浴びる機会などなかった。

その仮面の下では、死んだ目のように、無表情に、無感情に生きてた日々…。

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そんな私の心は当然ながら冷えきっていたのだが、それは裏を返せば、無意識のところではとても強烈に、そして常に光を渇望していて、それは欲望という形として増大させながら生きていた。

そんな私の無意識をしっかり把握している資本主義社会は、消費という手法で私を誘惑した。

私もまた例に漏れず、物質的依存にもことごとく陥った。

でも、本当の私は心の奥底ではちゃんと知っていたんだと思う。

これらは単なる刹那的なものであると。

それでも、本当の素顔に光を浴びることなくひっそりと生きてきた私は、自尊心のひとかけらも存在しなかった。

だから、他の人がする方法を真似て、お酒やタバコに手を出し、依存し、憂さを晴らす日々だった。

結果、心と身体の空虚という二重の苦痛を味わうことになってしまった。

そんな物質的依存はなかなか抜けないもので、依存から抜けるのに10年以上はかかっただろう。

依存の繰り返しにうんざりし、それでも相変わらず、仮面の下で眠っている私の存在を忘れ、この光の埋め合わせを外に求め続けた。

私はいつしか物質ではない他のものを探し続けるようになった。

その渇望する心は人に向かった。

そして、その心は共依存という関係にも向かわせた。

きっとこれを見ている人は分かると思うだろうが、共依存とはお互いに長期に渡って依存し合う関係のことだ。

私の生まれた家庭にも共依存関係は色んな場面で存在していた。

その家庭や集団の中では、常に自分よりも劣ってるといった「生贄」を定める。

今の日本や韓国ではその格好の標的になるのは妻や子供だろう。

夫が上、妻が下。

親が上、子供が下。

その上下関係を作り上げ、夫や親が上でいることで、上に立つ人間は安心感を得ようとする。

そして、下に立つ人間は自分は弱い人間だと強く思い込み、物質や精神的に強く依存し続ける、相互の依存関係だ。

「誰がお金を稼いでいると思ってるんだ」

よく聞くこのセリフからも見て取れる。

お金を稼ぐ自分にアイデンティティや優越感を持ち、稼がない人を下と見なす。

必ず自分よりも下に追いやる「弱者」を彼らは探し続け、実はその弱者に最も依存している人でもある。

でも、冷静に見つめる私はちゃんと知っていた。

そんな人間関係もまた、結局は物質的依存と同じで、刹那的に取り繕っている関係でしかないのだと。

 

社会のために。

国のために。

親のために。

家族のために。

子供のために。

他の人にとって輝いて見せる私のために。

 

本当の私は、こんなニセモノの美しい言葉にすっかり巻き込まれ、翻弄されていた自分に心底うんざりしてた。

本当の私は、この全く成長のない繰り返しの関係に早く終止符を打ちたがっていた。

つい最近気づいたことだが、そのうんざりというのは、いつまで経っても私に光が注がれないことだった。

子供、女、部下、年下…。

私は、どこへ行っても上下関係の下の役割を押し付けられ、引き受け続けた自分にもうんざりしていた。

私は、一体、私の順番はいつくるのか…とそれをずっとずっと待ち続けている受け身な自分にうんざりし続けながら生きていた。

 

あぁ、私はこの世界をどれひとつ望んでいなかった。

いつしかそれに気づき始めていたが、かと言ってどんな世界を望んでるのかは、闇の存在である私を消し続けていたので目を閉じ続けていた。

 

そして今、私は今までしがみついてたものを全て投げ捨てた。

中国での仕事のキャリア、生まれた国、国籍、名前、人間関係、環境…。

そして、なんでもないオーストラリアという国で、なんでもなくなった私は、何者でもなくして生きている。

それはいつしか素顔の私の存在を思い出させてくれ、またそれは、抱えていたたくさんの仮面が割れ消滅していった。

そうするうちに、私は素顔の自分に問いかけるようになっていた。

ー仮面の奥にあった私自身の心に光を当ててくれる人は誰?

出てきた答えは…。

親でも、先輩でも、友達でも、カウンセラーでも、近所の人でも、セミナー講師でも、家庭でも、パートナーでもその誰でもない。

仮面の奥にある素顔の私自身が引き受けることだとはっきりと返信が来た。

「私は一体、どうしたいと思う?」

常に、こう私が私自身に問いかける。

それが私に光を当てることだった。

その繰り返しの問いかけと答えの過程で、希望が見えてくるのだということを。

ただ、黙々と、淡々と、静かに。

私が私の人生を取り戻すために。

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光を取り戻すことは、心を取り戻すこと。

心を取り戻すために、自分を育てる時間を自分に優先して与え、問いかけ、その答えに沿って行動し続けること。

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それが、私にとって、本当の意味での自立であり、私の足でこの人生を歩くということ。

仮面の下に隠れていた闇の私がやっと目覚め始める。