書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

空っぽで透明で見えない器

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空っぽで透明で見えない器。

なんの制限もない無限の領域の器。

それはある時に、視覚を通してあらゆるものを捉え、

味覚を通してあらゆるものを味わえ、

聴覚を通してあらゆるものを聴け、

嗅覚を通してあらゆるものを嗅ぎ分け、

感覚であらゆるものを感じられる。

そんな、空っぽで無色透明で見えない器。

それは、360度、どこをどう見ても限りなく空っぽで透明の見えない器。

その器に「アイデンティティ」と呼べそうなものを必死で詰め込み、なぜあんなにも必死で周りに叫び続けることになぜこんなにも固執してたのだろう…。

長くて、長かった…旅路。

 

「家庭・家族」

とても輝いていたあの頃の写真。

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でも、私が自覚する頃にはその姿はなかった。

気づけばずっと続く暴力や虐待や無関心に我慢する長い長い日々。

当時、それを暴力、虐待という名前であることを知らなかった私は、それをなかったことにするしかすべはなく、透き通るほど綺麗で透明の空っぽの器には、果てしない絶望がなみなみと注がれ、それはずっとその小さな器に満ちていた。

当時の私はそんな器があろうことは知る余地もなく、ただ、やってくる絶望の波を、その小さな器が壊れそうなほど、ただただ必死で受け止めていたようだった。

透明なその器には、あまりにも痛すぎて苦しくて自分の心と記憶を殺すほどの大きなエネルギーが注がれた。

それほどの絶望がずっとずっと満ちていた。

 

「民族」

2001年、22歳。

家族に絶望し私はとにかく逃げたかった。

家庭に見切りをつけるしか方法が分からなかった私は、民族という切り札を思いついた。

そこへ想いを馳せ、必死でお金を作り、逃げるように韓国へ留学した。

そして念願かない韓国で過ごして間もなく待ち構えていたこととは、この国は私にとって血も涙もないそして、「なんでもなかった」というさらなる絶望。

あの、偏見に満ちた人の目が忘れられない。

あの心ない言葉を私は忘れたくなかった。

その言葉や態度をそのまま受け取ってしまった自分のことも全部全部、許せなかった。

小さな器にずっと溜め込んでいた絶望と、留学生活での絶望が交じったその時、それは怒りの坩堝と化し突然、それは身体の異変として爆発し、自分を傷つけた。

腰痛を患ったあの頃、私は寮のベッドの天井を見ながら、静かにじっと横たわりながら悔し涙を流した。

動かぬ身体と心は怒りで燃え滾り、そして、またやってきた絶望と向き合った。 

家族にも望みがない、民族にも望みがないことが分かったあの時、私は限りなく「死」に近づいたような気分だった。

 

もう、なにもしたくなかった。

もう、なにもできないと思った。

何も考えたくなかった。

ただ、私は無力だった…。

 

少し大きく拡大したように見えた器には、より多くの絶望が合流し渦となっていった。

それは言いようのない痛みと辛さと苦しさとなり、相変わらずぐるぐるとそこに旋回し、そして居座り続けていた。

私はその、あまりにも、そのあまりに長い間、その器の存在は知るよしもなく、注がれ続けていた絶望だけをじっと睨み、恨んでいた。

私を傷つける家族も民族も全部、死んでしまえとなんどもなんども思った。

みんな殺すまで、離してなるものかと思い、この痛みをギュッと握りしめ、心の奥にしまいこんだ。

 

「中国と朝鮮民族」

2003年2月

まだ若かった私は、この心の痛みや苦しさをまるでハエを追い払うかのように厄介者扱いしていた。

そのパワーを使って、私は中国の朝鮮民族自治州へ行き、一縷の希望をかけた。

韓国での生活よりは、気持ちとしては住みやすかったが、そこでの生活もじきに飽きてしまった。

そんな時に私の身の周りに迫ってきたSARSという得体の知れないもの。

それが、また一気に私を絶望の淵に追いやった。

私はまるで、またふりだしに戻ったような気分だった。

もがいてももがいても追いかけてくる絶望。

その見えない絶望と、ただ必死に闘っていたようだった。

私は降参するフリをし、日本に戻った。

日本に戻ったあとも、その絶望のエネルギーは私へ挑戦的に、生きる意味は何だ?という問いをなんどもぶつけてきた。

そう、なんどもなんども。

なにも見えなかった私はただ、やるせなさを抱えてただ、生きてた。

死んでるように静かに生きるしかなかった。

その心の奥にずっと横たわっている問いや、やるせなさをかき消したくて、お酒やタバコでこの体を麻痺させることが、あの時、かろうじて生き抜く道だった。

お酒で刺激し、さらにタバコの煙を吸い込み吐き出す時の深呼吸。

心臓がバクバクする感覚。

肺や身体がボロボロになっているような感覚と身体が少しずつ壊れていく感覚…。

こんな風に自分の身体を痛めつけることは、長い間、背負っていた絶望の感覚に似ているような気がして、ほんのわずかの間、なぜだか少しホッとした。

そしてまたすぐに絶望の沼へ引きずり下ろされた。

そんな深い闇と付き合うにはタバコは欠かせず、かれこれ10年以上付き合ったことだろう。

中国から戻ったあと、日本でしばらく生活をしてみたものの、なんのために生きるのかさっぱり分からなかった。

ただ、単調でつまらなくて虚しい感覚が強まるばかりで不満だった。

相変わらず私の空間に占領されていた絶望のエネルギーは、性懲りも無くもう一度私を中国へと向かわせた。

 

「もう一度、中国と仕事」

2009年4月

「30歳の節目、ラストチャンス」という気持ちで、もう一度、中国で仕事をしようと決めた。

しばらく中国で仕事をしているうちに、教える楽しさを知った。

ほんのつかの間だったが、幸せを感じた。

一生懸命仕事に取り組めることの喜び。

今、精一杯できることの喜び。

それはもしかしたら、抱え続けていた大きな絶望を一時的に忘れさせてくれたからかもしれない。

そうこうするうち、気づけば7年の時間を中国で過ごすことになった。

私はすっかり絶望はなくなり安定したかのように思っていたが、実のところ、その器には絶望はそこでひっそりと息を潜めていただけだった。

仕事が慣れてくると、私には新たな空間と時間を握っていた。

その空間に私が迎え入れたのはある男性だった。

そして私はこの男性からもう一度、あの「絶望」を味わされることになった。

とても仲良くしていたが、一方で彼には他の女性がいるのではないかという不信感、不穏な空気は二人の関係を悪化させていた。

そんな中、彼が初めて春節で帰ったその年、彼はそのまま帰ってこなかった。

突然の音信不通だった。

とにかく泣き崩れて、泣いて、泣いて、泣いて、家に閉じこもり塞ぎ込んだ。

もう私は天涯孤独のひとりぼっちだと思った。

もう生きてる感じもなにもなかった。

なにも考えたくなかった。

なにもしたくなかった。

ただ、ずっと嘆いて、悲しみたかった。

ただ、ずっと死んだ人間のようにじっとしていたかった。

その絶望の涙を一人、ひたすら流し続けてたことが、まさか、長年抱えてた絶望を洗い流し、いつの間にかまた、新たな空間が生まれる儀式だったことには、その時はまったく気づく余地はなかった。

私はあの時、完全に感情の渦に溺れていた。

その時、私はずっとその感情の渦に溺れていたかったのかもしれない。

その渦が絶望を持ち去った後、また空っぽの空間が生まれていたようだった。

その空っぽが居心地悪く、私はまた男性を求めた。

でも、前回とは少し違ったのは、恋愛としての男性ではなく、「生涯の伴侶」としての覚悟だった。

前回の男性との音信普通から約半年。

そうやって出会ったのが、今の旦那だった。

そして同時にその頃、私は自分のために初めて大金を使い、自分を癒すため、ロンドンへ二週間の旅に出た。

ずっととある女性のブログを読み続けていた。

そのセラピストである彼女の文章に私は癒されていた。

そして、いつかは彼女が主催しているカウンセリングコースに参加してみたいと思うようになっていた。

何よりもこのブログを書いている本人が一体、どんなことをするのかとても興味があったのかもしれない。

そんな風に思う自分と、そこで何かが変わるのかもしれないという期待とでどこか高揚していた。

こんなふうに私は、以前は絶望というエネルギーに突き動かされ、それに支配され続けていたようだったが、今はやっとそのエネルギーの操縦方法を覚えながら見えない方向へと進みだしているようにも思えた。

その後、旦那となる男性と出会った。

彼とは出会って間もなく一緒に暮らすようになり、妊娠をきっかけに結婚という流れになったのだが、私はこの時初めて妊娠し、そして流産という絶望と向き合うことになった。

手術前日に味わった痛み。

薬を飲んだあとに続く出血と痛み。

一晩、その痛みに徹底的に抵抗し過ごしたことは忘れられないことだろう。

痛みが持続することの苦痛。

死んでしまいたかった。

自分を殺したくなった。

死ねばいいと思った。

死んでほしかった。

早く楽になりたかった…。

そんな絶望の夜を過ごした後もやっぱり私は生きていたし、やっぱり朝はやってきた。

その経験から、私は失ったものもあったが、同時に絶望も連れ去ってくれたような感じもする。

また、その経験を通して、今の旦那の誠実さと温かさを心から感じ、彼と一緒になろうと心から決心できた。

そこから結婚まではそう長くはかからなかった。

 

「結婚、そして…」

2015年4月

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結婚式を挙げたその月、彼がオーストラリアで仕事をすることが突然決まった。

私は中国での仕事や色んなものを捨てたり手放す作業をしながら、私は30年以上の絶望とお別れの儀式をなんども繰り返し、中国の地を去ることになった。

今も中国のこの大きな大地の心に感謝している。

しかし、その先の土地がまさかオーストラリアになろうとは思いもよらなかったことだったが…。

随分と遠回りだったアイデンティティの旅。

それは、生命をかけてでも、時間をかけて、ただその事実を探り、私が私自身を救いたいがための旅だったとたった今、書きながら分かった。

私はずっとそのエネルギーに突き動かされるかのように夢を見てた。 

なんどもなんども悪夢を見ていた自分を殺し、そしてなんども死に絶え、そして、少しずつ、その長い長い夢から覚めていくような過程のようだった…。

 

 「オーストラリア」

2016年1月

私の前にはあれだけたくさんのあらゆる人は全て消えていった。

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絶望が洗い流されてからの私の心は、まるで更地のようで、その国もまた、私にとっては更地のようだった。

 

まっさらな、なんの感情もない場所。

まっさらで、なんの情報もない場所。

まっさらで、なんでもない場所。

まっさらで、なんでもない私。

まっさらで、まっさら。

ただ、そこには静寂だけがあった。

 

着いたばかりの頃は、まだ残ってる不安のエネルギーが空っぽの器に注がれ、心はとにかく暴れ出した。

旦那には怒りや悲しみエネルギーをたくさんぶつけてしまい、申し訳ないぐらいとても迷惑をかけたと思う。

そのぐらい、ありえないぐらいの静寂は私の気を狂わせた。

誰も私の名前も言語も私のことを全く知らない場所。

私もこの土地も言語もなにも知らない。

そのうち、私はあれだけこだわってた名前も、私が気に入った作った英語名でデタラメに名乗った。

すると、今まで私の中でこだわっていた「キ・ム・ヨ・ン・ヒ」という名前すらスーッと消せた。

あぁ、そうか。

名前すら、本当はどうでもよかったのか…。

この上なく、徹底的に、空っぽの空間だけが広がる。

そういや、空っぽは名前がなくなったところで、やはり変わりはなかったな…。

あぁ、空っぽなんだから、なにをどうそこに入れることもできるし、どんな色にもなるし、どんな音も聞けるんだった。

ただ、空っぽで透明で見えない存在であるということだけがわかっただけだった。

ただ、空っぽであることをこの土地は沈黙で語っているようでもあった。

私はずっと自分が得たように思えたモノや経験や体験ばかりに注目してばかりいて、ずっとそこにあった空っぽで、透明で、見えないこの器にただそれらを迎え入れていたことを、呆れるほどすっかり忘れていた。

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この空っぽに、つぎはなにがやってくるのだろう。

この空っぽに、つぎはなにが満たされていくのだろう。

この空っぽに、つぎは何色が見えてくるのだろう。

さぁ、この空っぽに、なにを迎え入れるのだろう。

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ただ、静かに見つめ、優しく受け止める。