書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

充実した人生?

「あ〜今日も充実した一日だった」と言えることをとても肯定的に捉えていたし、まるでそれがあるかのように、なんとなくそれを目指してた。

そして、逆の場所にあるような「暇」「退屈」「虚しい」という状況の自分が恥ずかしくて、なんとなく人には言えなかったようなところがあった。

そんなところから始まり、「充実した人生」とやらを目指して色んなことを試してきた。

バイト代を全部費やし、友達と遊びほうけ、ライブなどに費やした「お金の充実」。

仕事に時間を費やす「時間の充実」。

色んな国で生活するという「体験の充実」。

自分の興味のあるものに時間とお金を費やす「消費の充実」。

パートナーと生活するという「経験の充実」。

きっとこれからは「マインドフルネス」などと言って「瞑想の充実」とやらも出てきそうだな…笑。

とにかく、思いつくままに、気がすむまでとっかえひっかえやってみて、もう十年以上が経つ。

そうこうしているうちに私の中では「充実した人生」とやらは、忙しくスケジュールを息つく暇もなく入れ続けることなのだと勘違いするようになってしまっていった。

そして、忙しさで感覚は麻痺し、皮肉なことではあるが、深層では、まるで燃え尽き症候群のように、どんどんと自分が空っぽになる感覚が増幅していった。

辞書で調べれば「充実」という言葉は中身が詰まっているということだが、私は私ではない、私と勘違いしていたものをかき集めて「充実」としておきたかったのかもしれない。

「勘違いしていた私」というキャラクターは「充実してない人生」が許せなかったのかもしれない。

そして「勘違いしていた私」は人に肯定的に見てもらいたい気持ちでいっぱいだった。

でももう正直なところ、疲れてしまって降参したいと思った頃だった。

そんな今、ふと思い出されるのは。

本当のところは、玉ねぎをむいて、むいて、むいた最後の「空っぽで透明な空間」なのかな…と。

苦しくて辛いときもそうでないときも。

抵抗して無感覚になっているときも、そうでないときも。

私は暇で時間を持て余している時も、色んな行動をしている時も。

役割の義務感で疲れている時も。

何かを獲得してようがなかろうが。

どんな身分だろうが。

退屈な時もそうでない時も。

ボーッとしてようがそうでなかろうが。

誰かと一緒にいようがいまいが。

仕事をしている時もそうでない時も。

誰かの役に立っていようがなかろうが。

誰かが見ていようがそうでなかろうが。

怒ろうが泣こうが無表情で無感情だろうが。

こんなありとあらゆるものが、この「透明で空っぽのもの」にいつも注がれ満ち溢れていたし、これからもありとあらゆるものが注がれ続けて満ち溢れていくことになるのだろう。

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実のところは「ありとあらゆるものの透明な受け皿」の方だったとでも言おうか…。

そんな意味では、みんなが、ありとあらゆるものが、無条件に「リア充」なんだなと思う。

さぁ、今は、一体どんなものがこの空間に満ちているのだろう。