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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

日常の行動の後ろに隠れていた、今ここにあった心

普段、なにげなくしている日常の行動。

そこから今ここにあった心。

いつもなにげなく「あぁ、毎日、湯船に浸かっていたい」という真意を分かっていなかった。

その後ろには「私はもっと癒されたい。もっと温かさを感じていたい」という後ろに隠れたニーズがあった。

マッサージをしてもらいたいという真意を分かっていなかった。

その後ろには「私はもっと大切に扱われたい」というニーズが隠れていた。

毎日のようになにげなくする掃除機をかける行動や洗濯など、きれいにすることの真意を分かってなかった。

その後ろには「私は毎日汚れを取り除き、いつもスッキリしていたい」というニーズが。

毎朝、クラシックを聴くということ。

そこには「優雅な気分に浸りたい」という気持ちが。

毎日のように熱いコーヒーを飲みたいという真意は…。

それは「苦さの中にある深みや温かさを感じたい」というニーズ。

毎日のようにお花を眺めていたいという真意。

「日常の中にある、無限に続く美しさと可能性を感じていたい」というニーズ。

講演会や本を読む行動の真意。

そこには「成長したい。真実を手に入れて楽になりたい」という気持ち。

毎日散歩していたい、歩きたいという真意。

そこには「エネルギーを振動させたい。解放させたい。動かしたい」という思い。

写真を撮りたいという真意。

「その瞬間の美しさを忘れたくない」という気持ち。

それらの行動の裏側のニーズをあれこれひっくり返していくうちに、今ここには全て「私は足りない」という共通の想いが顔を覗かせていた。

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「私はとても傷ついてて癒しが足りない」

「私には温かさや苦しさが足りない」

「私は成長が足りない」

「私には知識が足りない」

「私は大切に扱われてない」

「私は楽じゃない」

「私にはエネルギーが足りない」

「私には美しさが足りない」

「私には力が足りない」

今常にあった「私は足りない」という気持ちに触れることが嫌で、それを避けようと他の何かで補う行動に出ていたことに気づく。

その「補うという行動」ばかりを追いかけて夢中になるうちに「私は今足りないと感じている」という想いは完全になかったことにしてしまっていたことに気づいた。

すかさず「なんでそんなに足りないと感じることが嫌なのかな?」 と質問してみた。

するとやっぱり出てきた、家庭で背負ったこんな想いのパターン。

「私は価値がない」

「私は無視されている」

「私は愛される資格がない」

「私は弱くて力がない」

ふと、想像してみた。

もし、今書いたような思いの根っこを持った私が映し出した「私」はどんな感じだろう。

「自信がない感じ」

「自分で自分のことを感じてはいけない」

「私は感じる価値のない人間なのだ」

…と、無意識に感じることを禁じ続ける物語を作りそんな私を見事に演じ続けることだろう。

人の意見は存在していいけど、私の意見は存在してはいけない。

いるはずなのにいないかのような透明人間のような存在。

そんなふうに自分を軽視するそんなみじめな想いに触れるのがとても嫌でとても怖かった。

すると、その子はやっと長年の想いを伝えようとそっと口を開けた。

 「ただ、ずっと昔から足りないと感じている私をもっともっと見てほしい」

「ただ、ずっと寂しいと感じていた私のことを分かってほしい」

「ただ、足りないと思っている私をもっともっと包んでほしい」

「ただ、足りないと思っているこの心をもっともっと感じてほしい」

「ただ、私はいつも今どう思っているのかを全部受け止めて、尊重してほしい」

「ただ、今ここにあるその想いを見てほしい」

それがやっと見えてきたようだった。

足りないもの自体が欲しかったんじゃなかったんだ…。

足りないというその感情を感じて欲しかったんだということ。

今その瞬間に、私は一体何を感じているのかをもっともっと注意深く観察しもっともっと大切に感じることが今の私に必要なことだった。

思考はなんて奥が深く、とても複雑で、そしてなんと天才的で素晴らしい創造性なのだろう。