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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

一体、それは誰の目?

「沈黙の日常」を嫌がったり遠ざけることもせず、じっと日々寄り添ううちに、緊張で固まってた心がほんの少しずつゆっくりと溶け出してきている。

すると不思議ことに、緊張が緩み、その見えない沈黙の空間から、私はずっと人の目を気にして緊張しながら生きるという習性がそこにずっとあることを見てあげられる余裕が生まれた。

家庭内では兄弟間の比較や評価、学校内ではクラスメートとの比較、社会人になってからは収入や肩書きや地位などの周囲の友達との比較、いかにその役割という枠の中のマニュアル通りであるかどうかの比較など…。

こんな無数の外枠に自分が当てはまってるかどうかをチェックして、常にそれに一喜一憂している自分がいた。

そして当てはまっていなければ、自分が悪いかのように自分を責め、それを正そうと強いる緊張感。

そんな緊張感で張り詰めた感覚の名残が、今も無意識に人の目を気にさせていることに気づいた。

たとえば、パジャマのまま家のベランダに出ていても、少し物音や人影がいるするだけで緊張して家に引っ込んでしまう。

無防備な自分を見せることはとても危険だと思っているようだった。

その自分の緊張感に気づいたのは旦那がきっかけだった。

引っ越した当初、カーテンもなく過ごしていて、隣の人がすぐ見えてしまうのでとても気恥ずかしい感じがあったのだが、旦那は全く意に介していない様子だった。

そんな風に彼と比較した時、私は過度に外の目を気にする繊細で恥ずかしがり屋であることに気づいた。

そういえば、小さい頃もお店でオーダーができなくていつも両親に頼んでいたっけ。

今、改めて「内向的な自分」と何十年来の再会を果たしたようなそんな気分なのだ。

ある時を境に「内向的な自分ではダメだ」とどこかで強く決心して、外向的な自分を頑張って創り出して、でもどこかで疲弊していたのかもしれない。

今もまだ怖がりで、恥ずかしがりの自分がいることを素直に受け入れられる。

でもそんな怖がりや恥ずかしがりの私が見た世界は緊張して感じていることもまた、結局はどうでもいい幻をぼんやりと見ていたことに気づいた。

その緊張の幻には色んなものが芋づる式につきまとっていた。

たとえば、今、私は社会から道を外れた落伍者・置いてきぼりのような感じ。

そしてそんな自分をまた責め立てる。

だから、私を人に見られてはいけないという気持ち。

こんな自分いじめも相変わらずまだまだ存在していること。

他にも「外ではきちんとしていないといけない」という思いなど。

緊張した世界というひとつの幻は、こんな多くの面倒なキャラクターたちを生んでいた。

それを私は知らずにズルズルと引きずっていて、知らずに疲れていた。

そんなキャラクターも嫌がったりせず、ゆっくりと面倒を見て付き合っていくしかない。

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何せ私は、そんな面倒なキャラクターの存在すら許して居場所を与えているとてつもない寛容な意識なのだから。