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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

「意味がないこと」に光を!

今は冬本番のオーストラリア。

寒い時は最低4度ぐらいまで気温が下がる。

冬のオーストラリアは雨が多く、しばらく引きこもっていたが、昨日は久しぶりの暖かさに誘われ、散歩にでかけた。

働いてた頃はこんな時間に何時間も散歩するなんてありえなかった…。

なにせ、十何年も外で光を浴びる喜びなど忘れて、人工的な建物の中で、日が暮れるまでせっせと働き続けていたことをぼんやりと思った。

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そのせいなのか、未だにこの広い青空がもの珍しく新鮮に感じるのかもしれない。

もし、あの過去の働きバチの世界の私が今の世界を見たら、今の生活は意味がないことだらけで、きっと自分を責めまくってるなぁ…と思う。

そうこう考えているうちに「そんなことやっても意味がない」と判断してやらなかったことをもう一度、再考してみたくなってきた。

その時、ふと思い浮かんだのは過去のこんな一コマ。

 

中国で働いてた頃、私はいつも会社まで30分ほどかけて歩きで通勤していた。

あの地獄の満員バスに乗るのも、いつ来るか分からないバスを待つことも大嫌いな私は、自然と徒歩出勤を選んでいた。

音楽を聴きながら毎日ウォーキングすることはとても心地がよく、次第にかかせない日課に変わっていった。

そんなある日、同じマンションに住んでいた車通勤の中国人の同僚が運転中に私を見つけ「一緒に乗りなよ!」と声をかけてくれた。

でも、その瞬間、気づけば断っている自分がいた。

彼女にとってはきっと親切心だったのだろう。

でも、私にとってはとても大切な時間を奪われるような感じがしていた。

断る私を見て、彼女はややいぶかしげに、そして少し理解しがたい表情で、でも彼女はもう一度「なんで?早いんだし一緒にいけばいいじゃない。」ということをその時言ったと思う。

その彼女の口調はまるで「ただで車にも乗れて早く着くこんなに効率のよい手段はない。それを選ばないなんて信じられない。」といった感じで、私がなぜ拒否するのか理解し難そうな雰囲気だった。

でも私はそんな彼女を尻目に「ありがとう。でも歩いていくね。」と丁重に断った。

一方、私が見えている風景はと言えば、体と心の健康上も、そして道端に咲いている花を見つけるのもとても楽しみにしていた。

それは車のスピードでは決して見つけることができない風景。

それぞれがそれぞれの角度で強く信じてるものがある。

その信じてるものに基づいて私たちは行動したり、同じものを見ていても、きっと見えている景色が全く違っているのだろう。

その信じてるものかあまりにも強固になったり、否定されるのが怖かったりすると、きっと「いい悪い」という判断に入って相手を悪者扱いしたくなるのだろう。

彼女はとても聡明で、頭の回転が早く仕事も何でもこなせる女性だった。

そんな彼女が仕事をこなすうちに「コスト・効率・早い・楽」という価値観を持つようになったのかもしれない。

会社勤めが長くなるうちに、その組織の中で植え付けられている価値観があって、私たちはそれに基づいて行動するように飼いならされてきたのだ。

「経済的価値を生み出す人間が価値がある」

「効率のよい人間が評価される」

「評価される人間が勝つ」

「地位や権力を持てば発言力がでる」

「働かざるものは食うべからず」

でもこんな価値観もよくよく考えて見れば、どれも「会社にとって」都合のよい価値観でしかなく、会社を離れた「今の私にとって」はゴミのような価値観だとも分かった。

そんなゴミの価値観も、時間とともにいるうちに、どこかでそれに慣れ親しんでしまう習慣。

あぁ、恐ろしいこの習慣…。

あの当時の会社勤めの私が、今の私を見ればきっと「無駄!」と叫び、全く価値がないことだとこっぴどく責め立てていることだろう。

そんな今の私のひとつのレッテルは「主婦」。

しかしながら、未だにこの名称にとてつもない違和感を覚えている。

家事はもちろんするが、あまり好きではない料理は旦那に任せている。

どちらかと言えば「時間自由人」という方がしっくりくる。

私が生まれた時に感じていた「主婦」という言葉のイメージとはまさしく母のことを指していた。

あるひと昔前の社会の角度では、主婦はお金を生まない存在として見なされがちで、軽んじられている雰囲気をなんとなく感じていた。

それは父がお決まりのように言う「お金を稼いでいるのは誰だと思っているんだ」というセリフに象徴されているかのように。

そして、その当事者である母もまた、どこかでそんな「お金を稼がない私は価値のない自分」という価値観を受け入れしまい、無意識に自分を抑え、否定し、卑下しながら、そしてどこか罪悪感という重圧を自らに強いて、いかに犠牲的に生きるかという世界観を感じていた。

そんな雰囲気をなんとなく感じた私はどこかで、こんな主婦=家庭と心の奴隷になりたくないという気持ちから、学校を卒業してから今までずっと働いていたのかもしれない。

そんな今になって、その一番嫌悪していた「主婦」いうロールにやや拒絶反応がありながらもはや半年が過ぎた。

少しずつこの「主婦」というロールプレイングゲームに向き合えるようになってきた。

そのきっかけはきっと、住む土地を変えるうちに緩んできたのだろう。

例えば、オーストラリアでは税金がとても高いというお国の事情がある。

共働きにでれば、課税も当然高くなり、結局は手元にあまり残らないようなシステムだ。

(ここもまた女性が自然と労働から遠ざかるを得ないシステムだと感じざるを得ない)

いずれにしても、一番やりたくないと思っていた主婦というロールは子供もいない今は「限りなく時間の自由」の獲得とも言えた。

すると、会社や社会では「意味がない」と称されることが許されていることになんとも言えぬ解放感があった。

自由が許されているからこそ、心のままに動ける。

その時に一番、本当にやりたいと思う掃除や洗濯だけをやったり、花に水をやったり、ぼーっとしたり、昼寝したり、日向ぼっこしたりしたり、ぶらぶらとあてもなく散歩したり、好きな花と景色の写真を撮ったり、好きな人と話したり、好きなYouTubeチャンネルを見たり…。

そんな日々を過ごすうちに気づいたのは、組織や会社にいる時に必ずついてくる「やるべきこと」がどんどん減り、必然的にやりたいことに基づいて行動することが増えていった。

きっと今まではやるべきことを優先して過ごしてきたんだろうな…。

窮屈な会社用の服も全部捨てたら家の中は空っぽになった。

すると、楽な格好でとにかく自分がやりたいことだけに集中できた。

そんな風に過ごすうち、気づけば自分の心と向き合いたくなってきて、今はこうやって毎日、書くことがとても大切なことに変わってきた。

書けば書くほど、こんなにもエネルギーが湧き出るんだということに自分でも驚いている。

まるで、自分の麻痺した感覚を取り戻しているようにも感じるのだ。

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そんな意味がないと思っていたことにじっと光を当ててみると、実は自分にとっての本当に欲しかった無数の感覚と感動が隠されていた。

闇が深かった分、まだまだきっとこの書く癒しの日々は続いていくのだろう。