書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

半年ぶりの買い物での気づき

オーストラリアに来てから、まともに長い時間買い物することは、恐らく今週末が初めてだったかもしれない。

東京では慣れ親しんでいた「消費」という久しぶりの感覚や街並みをじっくりと味わってみた。

 

オーストラリアに来てからは、なんとなく街並みの雰囲気からも、東京との品質の格差は感じていた。

もしかすると、ここでの買い物は全く心踊らない自分がいたからこそ、半年も買い物せずにいたのかもしれない。

東京ですっかり目が肥えてしまったせいか、目に映るものはB級品ばかりのようですっかり興味を失っていた。

やっぱり、東京は一流が集まってたなぁ。

 

色んな商品や人混みにまみれるうちに、自分の中心がだんだんとぶれてきて、自分が果たして何を食べたいのか、何が欲しいのかという感覚がしばらく分からなくなっていることに気づいた。

それに巻き込まれてる間は何だかとても疲れる自分も発見した。

今日は主に旦那の買い物に付き合っていたのだが、旦那の買い物ペースに合わせているうちに疲れてイライラしてる自分がいた。

でも心のどこかでグッと我慢して自分を犠牲にして、口では「付き合うよ」と嘘をついてしまっている自分を見つけた。

すっかりキャパが越えてることも気づかずにいた自分。

イライラの感覚は、自己犠牲の現れだということを教えてくれていた。

なので今日はしっかりと「私にも自由な時間をちょうだい!」と言葉に出してしばらく一人で好きなように歩いていた。

その自由な時間を共にするうちに、ふと甥っ子のおもちゃを選びたい気持ちが湧いてきて、その気持ちに従っているうちにちょっと心がおさまった。

 

あとは溢れかえったモノの多さに、軽い吐き気を覚えた。

それにしてもこんなにたくさんのモノは一体どこから出てきたのだろう。

そして、この安売り、叩き売り状態が、モノを粗末に扱われているような感覚がして悲しくなった。

 

セール品の中から、一生懸命質の高いものをあーでもない、こーでもないと探している旦那に付き合っているうちに、あぁ、一番大切な時間を今、失っているなぁという想いが湧いてきた。

あとはこんなにも叩き売りをしているのを見てると、モノの値段って一体何なんだろうとも感じた。

 

他にもセールの看板が出ているのを見ると「あ、自分も買わなきゃ損かも…」という思いがふっと頭の中を通り過ぎた。

そしてそのセールをしている場所に長くいればいるほど「何かが足りない」という気分に陥りやすいことが分かった。

それがきっと消費に走らせるのかな。

当たり前のことだが、目的もなしにブラブラと歩いていても、何も見つからないし、例えその場で買ったとしても家に着いた途端に目が覚めたように興味を失う。

f:id:EarthAngelLight:20160710185643j:image

日常生活でもこんなに無数の思考があってそれに気づけることがあるのか…。

まったく、すごいなこの思考。

 

まぁ、とにもかくにもやっぱり家が一番安心する。

更に言うならば「内側の心」というホームポジションにリセットできた時が一番安心するという気づき。

今はこんな日常を書き留めておくことが、一番の安心に繋がっているようだ。

 

あぁ、なんかぐったり…。