書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

常に全てに静かに気づいている「この意識」

溶け込みすぎて疑いも気にもしてなかった「思い込みの自我」とやらをぼんやりと眺めてみたとしたら。

もっともっと当たり前の近すぎて見落としすぎた「何か」があるのではないかという気がしてきた。

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私の身体があると思い込んでいて、

私のこの思いが全てだと信じ込み、

私という個があるとばかり思い込んでた。

でも、じっとそんな自分を見続けると、急にするりとこの手からすり抜けて消えてしまうものばかりだった。

ずっと私が信じようとしてた概念のようなものはどこにも見当たらないのだ。

 

私という自我はこんな無数の自分を創り、勝手に背負い込んでいた。

 

私は朝鮮という記号を背負った人間だ。

私は朝鮮民族だ。

私は在日コリアンだ。

私は韓国人だ。

私は女だ。

私は長女だ。

私は既婚者だ。

私は私の人生を自由に選んで生きている人間だ。

私は男っぽい性格だ。

私は悲観主義者だ。

私は笑うことが好きだ。

私は話すことが好きだ。

私はお酒に飲まれる人間だ。

私は大学を卒業した。

私はバリバリと仕事をしている人間だ。

私は弱い人間だ。

私は価値がない人間だ。

私は孤独だ。

私はどこか人と違うことを恐れている。

私は自信がない。

私は否定されるのが怖い。

私は親=支配者の言うことを聞かないと殺される。

私は支配者に怯えている。

私は存在してはないない人間だ。

私は教えることが好きだ。

私は自分の想いを語ることが好きだ。

私は教育が全てを変えると信じている。

私は冷え性だ。

私は教育者だ。

私は健康が大切だ。

私は…。

 

こんな果てしない無数のアイデンティティや想いや価値観を眺めているうちに、それは決して永遠に固定されたものではなく、全て時間とともに変化していることに気づかされた。

そして、これら私が勝手に決めつけていた定義という小さな破片に過ぎなかった。

気づかぬうちに抱え込んでた色んな「私」という破片が、日々の暮らしの中で重しが鉛のように同化し、あたかも全体かのようにどんどんと支配し始めた。

そうすると、何だか辛くなってる自分がいた。

どこかで全てを包括することは無理があると思ってた。

その重しを少しずつ軽くする術を知ってから身軽になった分、少しずつ、そして視点が大きくシフトし始めているのかもしれない。

 

そんなありとあらゆる全てを終始一貫を常に見つめ気づいている「これ」は全体に流れている血流であり、ひとつひとつの出来事は一滴の血のような感じがする。

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そう思うと、血流も一滴の血も元を辿れば同じものである。

一滴の血はただそこにあり、そしてまたその血流という流れにも沿っているのだ。

血はあらゆる形として現れては流れている。

 

血流という、その本来の視点を思い出せそうな気がする。