書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

勉強と学習〜Study〜

眩しく輝く光。
今日も新しい一日。

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今日のカードは…。

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「勉強する」
本を読み思索にふけっている姿。
そして本の半分は現代には欠かせないインターネット。
今の私の姿と完全にリンクします。

私の人生で、よくも悪くも時間とお金を最も費やしていたことといえば「教育」。
今日もまた私の興味深い話題。
細かくじっくり観察しよう。

アジア言語を一通り学んだこともあり、ふと中国語の「勉強」が頭の引き出しから出てきた。
中国語でこの漢字は「無理やり」や「しぶしぶ行うこと」という意味だ。

他にも韓国語では「공부한다」で、直訳の漢字は「工夫する」と書く。
韓国に住む妹に詳しく聞いてみたところ、「工」は匠という優れた技術を持つ職人を表し、「夫」はその道を極めた人を表すのだそうだ。
(うーむ…やはり韓国は完全に男社会の匂いが…)

それぞれの国の背景から、単語の表現や使われ方の違いは奥が深くてやっぱり面白い。
その国ごとの視点から、今の私が本当に求める答えを導き出せそうだ…。
何だかワクワクしてきた。

私が通った学校には、教科書という数多くの「マニュアル」が存在し、毎日忙しく一日があっという間に過ぎていった。
そして山積みの宿題。
そして世代は変わり、韓国に住む小学生の甥っ子を見てても、毎日のように抱える膨大な宿題。
世代を超えても相変わらず変化のない、違和感のある光景がずっと心にひっかかる…。

私が生まれた時代にはもうすでに「義務教育」というものが定着して、当たり前に存在している世界だった。
うーむ…ここでもまた出てきた「当たり前」。

そんな「学校は通うものだ」という当たり前も、じっくり眺めるうちに新しい視点が見えてきた。
「学校とは国が主体となって決めた内容や情報を子供が受け取る場所」
そんな観点だった。
国が主体であれば、当然、教科書というマニュアルや学習方針というものが存在し、その場所は次第に「私」という「個性」はかき消され、個人の人生の目的なぞ遠い暗闇に葬られていた。
それを顕著に表すかのようなペーパーテストと成績表。
当然のことながら、「私の人生の目的」を保証する成績表などどこにも存在しない。
そう、どこにも存在しなかったのだ。

そんなことを振り返ってみると、私が受けてきた学校教育のほとんどは、中国語が意味する「勉強」だった。

そんな「勉強的」学校の卒業証書をもらっても、当然のことながら私の人生の目的も目標も相変わらず暗闇の中。
本当の意味での大学へ行く目的を持てずにいた私は、お世辞にもよかったとは言えない程、時間とお金の浪費の期間だった。
目的が全く分からないなりにもがき、でもその人生の目的について周りは誰も触れようとも、まともに答えられる人もいなかった。
とりあえず通えばどうにかなるという私の甘すぎる考えは、後に長期ローンとして残った学費という代償を支払うこととなった。
(本当に長かったなぁ、あのローン…)

この選択から学んだことと言えば、目的も持たずなんとなくで決めたことは、完璧なぐらい自分に全部ツケが戻ってきた。
いや、倍になって戻った負のエネルギー。
まぁ、それでもこの痛い経験をしたおかげで、もう二度となんとなくの決定をすることはなくなった。
だからこの経験にも感謝。

じゃあ、もともとの勉強って何だろう…。
私にとって大切な「勉強」とは何なのだろうか…。
もう一度観察して見た。

そこですぐに思い浮かんだ経験とは2013年、溝口あゆかさんが主催しているコース講師陣 | Care of the Soul “魂のケア”カウンセラー養成講座に参加した時のこと。
イギリスでの二週間の講座だった。
私は数年前からブログを何度も何度も何度も繰り返し閲覧し、次第にこの世界に引き込まれた。
そしてこのブログを書いてる人が一体どんなことをするのだろうかという好奇心が芽生え、それが私を突き動かした。
これが完全なる自分自身との意志確認、決定の上で受講した素晴らしい体験。
(今サイトを見ると、この養成講座は四倍以上の申込みがあるみたいです。すごい!!)

なぜこの話をするのかというと、英語も全く話せない遠く離れたイギリスに行くという決断、そして自分を癒すためだけに自ら時間とお金を投資した「純粋に自分のために与えた許可」だったからだ。
そこには自分を癒すという明確な目的が存在していたし、それにコミットする意思表示としてお金を支払った。
この時の私はカウンセラーになることが目的ではなかったので、資格は取るに至らなかったが、今振り返っても本当に良かったなぁと心に残る体験。
二週間に及ぶ終日のワーク。
集合やペアで心を癒す実践の毎日。
毎日、40人分の出会いと喜怒哀楽がはじける空間。
さまざまな人たちが、同じく強い想いで集結したその場所と空間は何とも言えない解放感とすさまじいエネルギーの渦に包まれ、そして巻き込まれた。
自ら目的を定め、よく考え、そして決断する。
これが私が求める本来の「勉強」という形式だった。

他にも私にとっての勉強スタイルは本だった。
自分が欲しいと思う情報を選び、本を通して共有してもらいながら自分の考えを書き込む。
著者自身の体験談を本を通して、自分の栄養にしてきた。

今、学生時代の学校とこの経験を比較するうちに、またひとつ思い出されたのは、先生という存在…。

学生時代の先生はどこか立場が上で、常に上を見上げながら話さなければいけないイメージが強い。
たとえば教室には立派な「教壇」が用意され、常に一つ高い所から見下ろされている。
そしてその教壇に立ち、色んな知識を決められた時間内に一方的にまくしたて、詰め込まれるままの私。
ただ、ただぼんやりと聞いていた感覚だった。
「権力者」
そんな暗黙の了解もまた当たり前として存在していたのだ。
そんな先生には「指導する」「教える」という単語も用意されていた。
この単語を何度見ても過去に見た「上から下にものをいう先生」の特権のようにしか感じられないのだ。
親と同様、永遠に埋まらないのであろう上下関係の感覚だった。

しかし国を変え、考えも切り替えてみる。
中国語で先生は「老师」と書く。
この漢字が示すのは先生の先生という意味。
それはその道を極めた人のことを指している。

そして「学習」という言葉についても調べてみた。

学ぶは「誠に真似ぶ」
習うは「慣れる」

この言葉が使われた時代を想像するに、手取り足とり何かを「教える」ということは存在しなかったのではなかろうか…。

そして、この中国語の角度から考えると、自分が主体となっているという私の理想のイメージに近づいてきた。
私自身が主人公で、実践という環境に身を置き、模範になる「老師」の様子を真似ながら、そして人に揉まれながらも慣れながらその道を極めること。
日本語講師という仕事に携わっていた時はまさしくこれに近かった。
この現場こそが私を最も急速に成長させたと断言できる。

私が主体となり日常の「老師」を見つけ、真似ながら、慣れながら学習する。
これこそが私が求める学習だ。
これでやっとスッキリしてきた。

そう考えた途端、今まで大きくたちはだかっていた先生という存在は私の心からはすっかり姿を消したようだ。
学生時代の先生の存在が、今もずっと自分の考えを奪い成長の足かせになっていたことに気づいたのだ。
この存在にもお別れできる時が来た。
気づけてよかった。

“Education”は引き出すという意味。

私に必要なものは私が、
私を最大限に引き出せる環境に私自身で決断し身を置く。
その環境の中で道を極めていくだけ。

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今の私の老師は大自然。

お花を適切な陽の当たる場所に置き、適切なタイミングで水をやる。
そしてあとは花の成長を一歩引いてじっと見守る姿勢。

大自然をじっくりと感じ、自分という存在が宇宙の流れに沿ったことは何なのかを自分に問いかけながら、感じながらこの身体と心を使って行動する。

この花を見習えばいい。
この自然を見習えばいい。

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自然という眼識を持ち、私の人生をドライブする毎日。
私の日常という実践はまだまだ続く。

それにしても言葉の分解、組み立ては本当にワクワクする!!



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ブログの中身もとても濃く、読み応えがあります。