書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

真実を語る〜Truthfulness〜

『あなたの周りにある常識はなんだと思いますか。また、それらの常識はあなたの心は真実だと感じていますか。

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真実とは何だろう。
私にとっての真実…。

こちらオーストラリアは夏から秋の雰囲気です。
季節の変わり目のせいか、今日はなんだか体がだるく一日中泥のように眠っていました。
いや、もしやこれは本田健さん流に言うと、無意識の抵抗なのかもしれない。

はい、正直に言いますと、昨日から旦那と喧嘩して心身ともにだるいです。

私は今年の一月、旦那だけが頼りでオーストラリアに来ました。
オーストラリアは全く知らない土地。
英語もできず、近くに友人と呼べる人は当然いなく、心細い想いが波のように押し寄せては引くことを日々繰り返して生きています。
(ある意味、自分と向き合うには最適な環境なのかもしれない)

それに加え、最近、連日続く彼の仕事の忙しさからくる行動に「寂しさと孤独」という感情を募らせていました。

いつ始まりいつ終わるか分からない仕事。
「遅くなる。ご飯は外で食べる」といきなり送られるメール。
話しても気のない返事。
一生懸命作ったご飯も味わってないかのような感じ。
テレビに没頭し、まるで私は存在していないかのような感じ。

そんなひとつひとつを通して、寂しさや悲しみのスクリーンを眺めている自分…。
今の私はどうやら『心が感じられない言動』に対し、悲しみと怒りのエネルギーを蓄積し地雷のように抱え続けていたようです。

このエネルギーを放出するためにもどうかしばしお付き合い下さい。

20代からいくつかの国を変え、集団生活をしながら気づいたことがある。
国・地域・集団には個の感情が伴わない数多くの『常識』を知らぬ間に身にまとって生きているということだ。
きっとこの枠組みをまとめあげるために必要なことだったのかもしれない。

これが私から見えた色んな場所での常識たちだ。

日本にいた頃
人には迷惑をかけないものだ。
身内の恥はさらさないものだ。
成人すれば仕事をするものだ。
父は仕事でお金を持ってくる、母は家庭を見るものだ。
家事は母がやるものだ。
お金は父が稼ぐものだ。
大学三年生で就職活動はやるものだ。
残業はするものだ。
上司が帰るまで会社にいるものだ。
会社は15分前に出社するものだ。
子供は老後に親の面倒を見るものだ。
年末は家族全員で過ごすものだ。
会社はコロコロすぐに変えるものではない。

韓国にいた頃
女性はおしとやかにするものだ。
女性は外でお酒を飲まないものだ。
タバコは男性が吸うものだ。
年上には敬語を使うものだ。
年上にはお酒を両手でつぐものだ。
親の言うことは絶対だ。
女は家にいるもので、社会には出ないものだ。
有名な大学・一流会社に勤めたら成功した人だ。

中国にいた頃
男女同じく働くものだ。
20代前半で結婚するものだ。
結婚すれば子供は生むものだ。
おじいちゃんおばあちゃんは孫の面倒をみるものだ。
ご飯は誘った人がおごるものだ。
上司は部下の結婚式に必ず参加するものだ。
職場内では食べ物を食べるものだ。
コネがあればよい仕事や学校に入れるものだ。
結婚式は義理でも知り合いならば参加するものだ。
結婚式は必ずするものだ。
子供が親の老後を見ることが親孝行だ。

書き出したらこんなに多すぎる常識に頭がくらくらしてきた…。

またこれらの常識は場所と環境が変わるといきなりひっくり返ったりもして混乱もした。
なんて頼りにならないバラバラなマニュアル。
私の人生にこのマニュアルが果たして本当に必要なのか。
今、もう一度自分に問いかけている。

これらの『常識』は生まれたばかりの赤ちゃんの頃はまったくなかったはずだ。
その頃は間違いなく個の感情の塊で生き、喜怒哀楽を誰よりも上手に出していたはずだ。
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そうこの頃の私のように。

そのうち言葉を学び、家庭や色んな集団に適応するために、個の感情を脇に置き、頭だけを働かせ、いつの間にか「そんなもんだ」と無味乾燥な一言で片付け、意味も分からず行動することに慣れてきたのだろう。
これはこの時代のこの場所に生まれた私たちに課せられた集団から個にシフトする大きな課題かと思う。

しかしよくよく考えると怒りや悲しみは防衛本能の一部で、大切な命のシグナル。
ミルクがないと泣き、眠いのに眠れないと怒るのは生命の危機を感じるから。
幼い頃は身体の危機から、そして大人になった今は自分の尊厳を守るための大切なシグナル。

「心と身体の全てである命を守るための大切なエネルギー」

そう捉え直したら、これもやっぱり私にとってかけがえのない大切な一部。
切り離さず感じてあげたい。
今、心からそう感じるようになった。

何十年ぶりのこの感情を迎え入れよう。
まずは怒らせてあげ、悲しませて、感じさせて寄り添ってみる。
私の感情は私が全部引き受ける。
今は目下、その訓練中だ。

自分ともう一度対話し、平和の握手を交わせたらいいな。

この感情を見つめる術は以前、溝口あゆかさんという方が行っているロンドンカウンセリングコースで学んだことだ。
自分を癒すために訪れた二週間のコースは、数年経った今、やはり自分の力になってくれているなぁと今更ながら感じる。
資格は取るに至りませんでしたが、今はやっと感情の渦に飲み込まれることなく、少しずつ外から眺めながら日常に生かされていると実感する。
(ありがとうごさいます)

さて、改めて自問。
常識は一体誰のためのもの?
なんのためのもの?
それはわたしは本当に必要?
ひとつひとつもう一度問い直してみたい。

私は限りある時間を何に情熱を燃やしたいのか。
再検討中だ。

そのために昨年始めたモノの断捨離から始まり、今は常識の断捨離に突入している。
常識の断捨離でできた空間には、感情ひとつひとつの私の真実をまず感じ、自分にも相手にも誠実である行動に書き換える。

それが私の今のTruthfulnessだ。