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書く癒し

幼い頃に置き去りにしたままの「小さな私」を癒し、自らを育て直すための自己観察記録

感じる「間」と、それを言葉にのせる「時間」と

五感を通してやってきた情報を、足早に通り過ぎることなく、ただ、そこにじっと留まる。

そして、どう感じているのかを探る「間」を作ってみる。
見たものから目を離さず一時停止させるように。
すると静かな沈黙から、なにかしらの感覚が自ずとやってくる。

その間と感覚の過程を味わい、その感覚を言葉にのせようという想いの詰まった言葉。
それは、とてもとても強いエネルギーを放っているように思う。

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沈黙ありきの言葉

今日は、半年ほど前からお世話になっているカウンセラー中野真作さんとのセッション。
以前にもブログで紹介したことのあるカウンセラーの方です。
親愛なる、心に寄り添うプロ - 書く癒し

中野さんに出会ったばかりの頃は、月に一回ぐらいのペースでセッションを受けていた。
始めの半年は、主に過去にあった出来事とそれに付随した感情を吐き出すことが多かった。
半年が経過した頃には、なにかひと段落したような感覚があって、今はなんとなく二カ月に一回ぐらいのペースでお話をしている。

今日のセッションは、いままでにはない深い深い沈黙がそこに流れていた。
いや、源泉を辿っていくと、もともとはこの沈黙しか存在していなかったのではないだろうか…。
単に「小さなわたし」の頭の中がとてもおしゃべりで、その「小さなわたし」にずっと同化してしまっていて、結果、もともとあったこの沈黙をかき消し、なかったことにしていたんだなぁと思う。
今日はそんな「沈黙するわたし」と「おしゃべりなわたし」そのどれにも同化するわけでもなく、それぞれの側面を行ったり来たりしながら、ゆらゆらとそれぞれを見つめていたような感じがした。

その沈黙の空間には、言葉にならないエネルギーが確かにあった。

その沈黙に浸かっているうちに、あぁ、もともとはこの沈黙の中で感じ取る微妙なエネルギーから言葉が創られたんだなぁということがなんとなく思い出された。
この微妙に感じるエネルギーをどうにか人と分かち合いたくて、言葉があったんだなぁ…と。

じっとその沈黙の中に身を委ねていると、目の前にいる人の瞳は「無」だった。
でも、その瞳をじっと見つめていると、それはさらに奥行きが感じられた。
その奥のスペースには、色んな経験や物語、そして深い悲しみや苦しみがギュッと詰まっているんだろうなぁ…ということがじんわりと感じられた。

『大変だったんだね』

思わずこう、呟いてしまった。

言葉なき、沈黙という会話。
そして、沈黙ありきの言葉を交わすこの体験がとても新鮮で、心地よかった。

そのうち、マッサージの施術を受けるような気楽さで、カウンセリングを受けるような世界になってほしいなぁ…。

★中野真作さんのホームページ

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ありのまま

『ありのままのわたし』

こんな言葉に二十代ぐらいの頃からぼんやりと憧れていたような感じがする。
でも、このありのままってなんなのだろうとふと思った。

はじめにわたしがありのままをイメージしたのは「赤ちゃん」だった。
泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑ったり。
その場の情動を、その場で表現するような…そんな感じ。

でも、今はちょっとそれも違うなぁと思う。
これは単に「そのままの状態」というような。

ありのまま。
なんだかよさそうだなぁ、でもなんだろうという探究心が芽生えた。

そのヒントになったのが、先日、とあるお話会の中の会話だった。

例えば、
ある状況を見て、腹を立てて、それをその場で怒りをぶちまけたり、痛烈に否定するという選択もOK。
腹は立てているのだけれども、その場では黙っているという選択もOK。
腹を立てていたのにその場で何も言えずに、あとで不甲斐なく感じ自分を否定しようとするわたしもOK。
あとになって悔しく感じて、その状況やその人を恨むわたしもOK。
そうは言っても、頭では分かるけど、心の底ではその人を認めたくないわたしもOK。

そこには、いわゆる「悪」と呼ばれるような、汚かったり、冷たかったり、社会的に排除されるような自分があったとしても、否定したり、遠ざけたり、なかったことにしたりすることのない状態が保たれている感覚。
「ただ、それがそうある」というような目線の感覚。

自分の内なるスペースでは、何を感じても自由なのだ。

こう書き出してみると、まるで切り離してたわたしに居場所を与えているような、そんな深い深い受容と安堵感を覚えた。

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深い静けさの底にあったもの

旦那が出張に出かけ、今週はわたしひとりの世界。
何をするにも自由な世界。
オーストラリアに来てから、驚くほどの静けさにやっと慣れたところだが、ひとりになると、より深い静けさに包まれる。

すると、無意識に何かをしようとせかせかしているわたしが出てきた。
時間の中に無理やり何かを詰め込もうとするわたしがいた。
なぜ、こんなにもすることがないことでそわそわ、落ち着かない感じがするだろう…。
そっとこころに尋ねてみる。

すると、昨日の夜、寝る前の沈黙の中、こう、そっと囁く声がやってきた。


『わたしは、とてもさみしいの』


その時、わたしひとりぽつんとひとり取り残された小さなわたしの姿が見えた。
信じられる大人が不在な環境で、わたしはずっととても寂しがっていたことを感じられる隙間がなかったんだ…。

あぁ、そうだった。
わたしはとても寂しがってたのに、その寂しさを感じちゃいけないと信じてた。
なぜ感じちゃいけないのかとまた尋ねた。

すると、こんな答えだった。
あの時、兄弟が四人もいるのに、わたしだけが残された。
その瞬間「わたしだけがひとり、いらない子なんだ」と信じたからだった。
それと同時に、それを寂しいと感じたら、わたしは負けてしまうと思った。
負けてしまうことは、わたしはいらない子としてこの家庭で生き続けないといけないと思った。
そんな辛く惨めな思いをしたくはなかった。
それだけはどうしても避けたかった。
そんな自尊心を砕かれることにはなりたくなかったのだと思う。
そんなことから自分を守りたくて、寂しさを感じることを強く禁じたんだった。
そこからわたしはずっと、この「寂しさ」の代わりに何か別のもので埋め合わせて続けてきたんだった。

じゃあ、今のわたしはどうしたいのだろう?

もう過去に囚われ続けて生きるのはやめたい。
寂しさは寂しさの居場所を充分にあげたい。
寂しさを別のものと埋め合わせするのはもうやめて、寂しさを寂しさとして充分に感じさせてあげたい。

この想いにも、居場所をあげたい。
どんな想いにも時間と空間の居場所をあげたい。
それが、今のわたしの心からの望み。

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願いと通過儀式

それは、幼稚園ぐらいの頃からだったように思う。

色んなことが辛すぎて、辛すぎて、辛すぎて。
色んなことで心が痛んで、痛んで、痛んで。
色んなことでちっちゃくなって苦しんできて。
色んなことで悲しくて、悲しくて、悲しすぎて。

そんな日常を過ごしてきた小さな私。

あの頃の、小さな私の器はまだとても小さくてそしてとても脆かった。
そんな小さな器には、もうそれを受け止めるスペースが全く残っていなかったのだろう。

そんなある日、小さな私は、もうこのエネルギーを感じることをやめたいと心の奥底で強く願った。
そうすれば、この心の痛みも全部、忘れられるのではないのかと思った。

すると、いつの間にかその願いは聞き届けられていたようで、その場その場の痛みは消えたように思えた。
これで、どうにか日常生活はやり過ごすことはできた。
けれども、それは苦しみや痛みと同時に喜びも一緒に奪われたことは随分とあと…二十年ほどの月日が経ってから気がつくことになった。

何も感じない日常。
無機質な毎日。
機械的な行動。

この平坦すぎる道は何よりも安全ではあった。
でも、そこには始まりも終わりも分からない、無限の無感覚の時間が佇んでいた。

それは私にとっての「地獄」だった。
それは私にとっての「死」だった。

そんな無感覚をどうにかしたくて私はもがいていた。
そうやって刺激を欲する道へと儀式迷い込んだ。
消費、友達とのバカ騒ぎ、お酒、タバコ、恋愛…。
一時的な刺激はその瞬間で終わり、その後にはもっと大きな退屈という苦しみが待っていた。

皮肉なことに、小さな頃の私が望んだ願いによって、今の私が苦しめられていた。

そんな二十年後の私は、また強くこう願った。

『私に宿っていた感じる力を元に戻してほしい』

すると、その願いは思いもよらぬ方法でやってきた。

国、人、環境、仕事、名前、生活習慣、好み…。

今までの私がひとつひとつ纏っていたものを根こそぎ剥がされたようだった。

それはまるでもう必要のなくなったかさぶたが剥がされるような感覚だった。

その経過はまるで、ずっと慣れ親しんだものから離れる不安に苛まれ、狂いそうだった。
その経過はとても混沌としていて、それはまるで荒波の中で何度も溺れ死んでしまいそうな、そんな感覚が幾度となく訪れた。

抵抗するだけしたら、もう疲れ果ててしまった。
こんなに疲れるのであれば、いっそこの荒波に溺れ死んだらいいと考えた。

そうやって私は一度、死んだのだと思う。
今までの私を、私の手で殺した。

そうやって一年が過ぎたようだった。
荒波はいつの間にか、穏やかな凪に変わっていた。

しんとした、静かな時間が流れ続けた。

すると、ゆっくりといきいきとした感覚が顔を出した。

まるでその瞬間、瞬間を感じるような。

あとにも先にも今だけのこの感覚がやってきた。

嬉しい時は嬉しく感じ。
怒りたい時に思いっきり荒れ狂い。
悲しい時はとことん泣き崩れ。
楽しい時は満面の笑みを。

それを全部ひっくるめて受け止めたい。
それが、私の新たな願いだった。

今までの過程は、まさしくその願いを実現させるための、生まれ還るための通過儀式だったのかもしれない。

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【4/28】小さな私と今の私との対話記録

ここしばらく、隣の家からの負のエネルギーで心がざわざわしている自分がいる。

シングルマザーだと思われる女性の怒鳴り声。
激しく泣きわめき、抵抗している子供の叫び声。
怒りでモノにあたっているかのような音。
夜中まで続く男女の喧嘩の声。
怒りでドアをバタンと閉める大きな音。

これらの音は、胸がギュッと締め付けられるような、そして緊張が走るような、そんな感覚に陥っていた。

久しぶりに小さな私と対話してみた。

★感情レベル…8(慢性的に続く緊張感)

ーこの音を聞いて何を感じているの?
もちろん、昔のことを思い出すの。
忘れたいのに忘れられない感じがするし、怖くて震える。

ー具体的にどんな場面?
夜中まで続く両親の罵り合う声。
お皿が辺り一面に割れる音。
夜中まで鳴り止まない掃除機の音。
テレビの大音量。
ハサミでズタズタに切り刻んだ服。
いつも不機嫌な顔をしている母親。
首吊りをしようとする母親の姿。

怒声、罵声、罵倒、憎しみ、恨み。

私の家庭という空間はそんな空気でいつも充満していた。

当然ながら、そこに私の居場所はあるはずはなかった。
私はただずっとその隣の子供のように、泣き続けていた。
聞こえないように体を丸め、体育座りをして俯き耳を塞いでいる私…。
ある時は「もうやめて!」と必死で泣き叫んでいた私の姿。
私はもしかしたら、そうやってずっとずっと抵抗していたのかもしれないと思う。

ーそうやって泣きながら抵抗することで、何を得ようとしていたと思う?
私の居場所を見つけたかった。
私の安心できる場所を見つけたかった。
だから体を丸めてギュッとしていた。

ーその「居場所」がしっかりとあるとしたら、私はどうなると思う?
笑顔になれる。
泣いても慰めになる。
怒っても最後は笑える。
正のパワーが充電される。
それは、私の力になってくれる。
何があっても大丈夫になる。
私はそんな安心、安全な場所を作りたいの。

ー安心、安全な場所が欲しかったんだね。
具体的にはどんなところが安心、安全だと思う?
静かに眠れる場所。
ご飯を安心して食べられる場所。
清潔で整った空間。
優しく笑顔で接することができる人がいる。
私のリソースと心を利用する大人がいない純粋な場所。
あらゆる喜怒哀楽を表現していい空間と時間がある。
私自身を尊重し、相手も尊重できる場所。
そんな場所のこと。

ーそれがしっかりと整ってたら、どうなると思う?
緊張しないで、取り繕ったり、そのままでいることを自分に許可することができる。

ーそうなると、どんないいことがあるかな?
裏表がなく、楽に生きられる。
相手中心の仮面を被る必要がなくなるから、心が楽になる。

ーそうか、それはいいね。
うん、今までは緊張ばかりする大人が側にいたから、その人専用の仮面を作るようになったの。
でもね、そのうち、仮面が増えすぎてね、もう素顔の私は限界なの。
だから、全部壊してしまいたいの。
素顔のままで接することができる人が、私はいいの。

ーそうか、じゃあ要らない仮面は壊そうか。
うん。

両親向け、先生向け、上司向け、年上の男性向け、学生向け、表面的な人間関係向け、仕事向けの仮面…。
そっと目を閉じ、イメージの中でこれらを外し、叩き壊した。
すると仮面の裏で隠れていた素顔の私が、まるで息を吹き返しているような清々しさがやってきた。

★対話後の感情レベル…6
★対話後の気づき
対話を繰り返していると、同じような道を辿ることがある。
それもきっと、新たな癒しと気づきをもたらしてくれる声として受け止めている。

隣の子供の声を嫌がらずにしばらく聞きながら、子供なりに不快からどうやって逃れるのかを自分なりに考えた結果として、怒りがあり、泣いたりすることだったのだということが深い所で理解できた。
そのもともとの怒りや悲しみのエネルギー自体は健全であり、ただ単純に表現方法を学んでこなかっただけでうまくいかなかったんだということも理解できる。

表現方法を学ぶひとつの手がかりは「本当はどうしたかったの?」と、まるで自分が自分の親となり、小さな自分に問いかける繰り返しの問答から得られたことが、きっと健全なコミュニケーションに繋がることだろう。

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空っぽにしたら…

仕事、国、文化、人間関係、家族、住む場所、言語、食生活、呼び名、全部、ぜんぶ、空っぽにしてみたら…。

初めは、虚しさに襲われて、過去にしがみつきたくなった。
恐怖と不安に襲われて、死にたくなった。
寂しさに襲われて、周りを咎めたくなった。
空虚な感覚に襲われて、無気力な感覚に陥った。
どうしようもないやるせなさに襲われて、ただすがるように誰かに向かって泣き続けた。

それでも、日々は続いてた。
空っぽになっても私は生きていた。

正直なことを言えば、またいつこの恐怖や不安に襲われるのかは私にも分からない。

けれど今は、この空っぽな静寂を、少しずつ心地よく感じられるようになった。

そして今は。
この空っぽに、どんな私の希望を乗せたいのかを考えている。
この空っぽに、どんな私の価値観を見出したいのかを考えている。
この空っぽに、どんな人を迎え入れたいのかを考えている。
この空っぽに、どんな環境を望んでいるのかを考えている。
この空っぽに、どんなことをしたいのかを常に問いかけている。

でも、今この瞬間の希望も価値観も人も環境も、ぜんぶ、全部。

またいつかは空っぽになる。
そしてまた、新たなものがその空っぽのなかに入り、それが変容として更新され続けていくことだろう。

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